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T.Nishijima

Author:T.Nishijima
2010年2月に妻が脳幹出血で倒れる。2013年3月に白雪姫プロジェクトと出会い、積極的なリハビリアプローチを始めるため、その回復への道のりを記録しようと日記をはじめました。また、このプロジェクトの存在を知ってもらいたいと思っています。
http://www.shirayukihime-project.net/

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ベッドサイドからの景色(3)
そういえば3年前、50歳を過ぎてはじめてアトピーになりました。
我ながらびっくりしましたが、それはきっと精神的なショックをちゃんと正直に身体が受け止めてくれたからなのでしょう。それで、身体が表現してくれたのだと思いました。ようするに目に見える状態になったことで、「現状の体調を自覚を促し、身体と心を少し休めないとヤバイよ」と自分に赤信号を示したものだったのでしょう。全身に湿疹ができましたが、顔だけ出来なかったので、あまり周りには気づかれずにすみ、アトピーは半年ほどで治りましたが、それだけ精神的なショックが強かったのだろうと思います。そんなことを表している当時の日記です。

<2010年4月14日の日記>
今日は4/14(水)、風邪で会社を休んだ。ちょっと無理すれば行ける程度ではあったが、どうも行く気になれない。君が2/13(土)に倒れてから2ヶ月が経った。

最初の1週間は、いつ逝くか?という緊張感の中で過ごした。君が生き残ってからの1ヶ月は、長い闘いの始まりだと、気合を入れて仕事に出ていた。そして2ヶ月が経ち、ここのところ急に妙な喪失感が押し寄せて来た。なんと表現すればいいのか、、、 あえて例えれば、電車で立ったまま本を読んでいるときにページをめくってから、つり革に手をやって「空振り」したときの心境に似ている。そこにあると信じていたものがない、あの感じである。そのあるべきものを、いつも知らず知らず心が探しているのだろう。
なんともうまく表現できないこの感覚は、どうにも言葉にはできない。

そしてこんな時に病院からは早く転院しろと言われるのだ。
それは病院のせいではない、救急病院という責任を背負った立派な病院で、そこに助けてもらった。「ありがとうございます」と姿勢を正してお礼を言わなくてはならない。命の恩人である。本来はとっとと出て行かなくてはならんのでしょう。しかし、現実の法律や医療制度は、どうも我々のケースとは、うまく噛み合っていないようだ。どうも僕らは医療制度の狭間に落っこちてしまったようだ。こんなにも矛盾に満ちた状況に投げ出されている患者と家族がどれだけいるのだろう?喪失感と現実社会でのやり場のない悩み、きっとこういう気持ちの人はたくさんいるのだろうと今はじめて解る。人間とは経験しないとわからないし、そのくり返しが人生だ。

今頃こんなことに気がつく僕は未熟者だが、この現実を謙虚に受け止めてしっかり君を守り抜く決意だ。・・・なんてカッコつけてみるのだが、へなちょこな僕は疲れがドッと出て風邪にやられた。今までの僕なら「こんなことくらいで」と無理にでも会社へ出社していただろう。しかし、今は“自分自身と家族のことを考える時間”を、風邪が与えてくれたのだと、そう考えて今日は休むことにした。本来、風邪とはそういう役目をもったもののようだ。

この半年、気功を習い始めていいるが、先生の二郎さんが、どんな病気の病原菌も、必ず悪影響を体に与え、その痕跡を体内に残すものだが、風邪だけは痕跡を残さない。風邪は、休めの信号であり、うまく活用すると、体をより丈夫にしてくれるプレゼントのようなものだと言っていた。プレゼントをもらうコツはかぜ薬を飲まないことのようだ。そんな風に考えると、気も楽になり「ここはいっちょう、しっかりと休んでやるか」という気持ちになった。頭は痛い、関節は痛い、のどは痛い、、、しかし二郎さんが言うとおりに、薬は飲まないことにした。朝から納豆と大量のしょうがをすりこんで煮込み、それに長ネギの白いところをみじん切りにして振りかけて、風邪を乗り切ることにした。体調は芳しくないが、「やはり君のところへ行こう」そう決めて病院へ向かった。

いつものようにボォ~っとしながらも、瞳を上下に痙攣させたままの君が、笑いもせずに出迎えてくれた。「いつかきっと笑ってくれるのだろう。その時僕は、きっと泣いて喜ぶんだろうな(笑)」そんな空想を毎日思いながら、今日も「おはよう」を言う。そんな感動をきっと君は運んでくれるはずだ。そのために90%の人が亡くなる脳幹出血を乗り切って、わざわざ不自由な体の中にもどってきたのだろう?今ベッドの上にバカみたいにボォ~っとしているのは、子供たちと僕に、この経験をプレゼントしてくれるためなのだろうが「ちょっとやりすぎだよ」と笑いながら声をかける。涙がこぼれる。

毎日涙をこぼしながら、足のマッサージを始める。毎日泣くなんて、きっと赤ん坊のとき以来だろう。きっとこれは50年ぶりの経験だ(笑)足の裏を爪でこすりながら垢をとってやると、たまに足が動く。最初のころはおどろいて、先生に「すごいんですよ、動くんです」って話すのだが、「それは生体反応、いわゆる反射運動です」とキッパリ。「あぁ、、そうですか~、わかりました」と言いながら、僕は「しかし、それだけではないのですよ。西洋医学的にはそうでしょうが、東洋思想の観点から見ると、いわゆる“奇跡”がこれから起こるのです」と心の中で大声で叫んでいる。毎日、足ツボのマッサージを約30分、幹部へ“気”を通すことを10分、今日はその他に、顔のウブ毛を剃ってあげて、手足のアロエクリームでのマッサージ。クレヨンしんちゃんみたいな眉毛を少しカットして揃えてあげた。目が見えていたりしたら、気に入ったかどうか?訊くことが出来るのにな。

このように僕の気持ちはこの2ヶ月で、空しさも大きくなってきたようだ。ある意味、今の環境に慣れてきたから、感情も安定してくるものと思っていたが、僕の「心」は逆の危険性のある状態へと向かっているようだ。心に大きな穴が空いている感じだ。このためにここに「書き記す」ことによって、自分の感情を確認し、吐き出しておかないとヤバイと思った。今日から目の前の君へ手紙を書くことにした。いつの日か復活したときに、必ず読んでもらおう。


<気功との出会い>
2009年の1月から、妙に首から右腕にかけての痛みがあり、50肩かなと思っていた。
どんどん痛みが激しくなっていき、いよいよ腕も上がらず、右を向くこともできなくなり、そのままの状態で夏を迎えた。もちろん、ここまでには整形外科に行って、首の牽引、痛み止めの薬、MRIでは頚椎ヘルニアの症状が映し出され、首の椎間板はすべてぺっちゃんこに潰れているのも分かった。そういえば、毎年身長が縮んでいる(笑)なるほど。。。と、納得しながら痛みをどうすればよいのやらと考えていた。

そう言えば、1年くらい前にぎっくり腰をやったときに、作詞家の渡辺なつみさんが騙されたと思って、気功に行ってみるといいと言っていたのを思い出し、教えてもらっていた気功の先生へ電話し予約した。2009年7月末、気功治療をしに行ったその日、わざわざ渡辺なつみさんは来てくれていた。30分程度で治療は終わり、なんだかピンと来ないまま5千円を支払った。気功の先生からなるべく早めにもう一度来るといいと言われた。それはそうでしょうと思いながら、そんなに頻繁に通うのにはお金がかかるから無理だなと思っていた。なつみさんとはずいぶん久しぶりだったので、お茶を飲みながら少し話をすることにした。診療がおわりすぐに部屋を出て、駅に向かい歩いて行った。雨がぱらつき始めた。僕の右側になつみさんが歩いていたため、ヒョイと右を向いて、「今日はわざわざありがとうね」と言ったとたんに気がついた。「あれ? 俺、今、右向いてるね?」 「うん、向いてるよ」・・・となつみさん。
そう、気功治療を受ける前まで、ほんの40分ほど前までは、首は左にしか向けず、右方向へはまったく向けない状態ではなかったのだ。治療を終えても半信半疑で、これで5千円かぁ・・・と首を左に傾けながら支払った私は、その3分後に右に向いた頭の中で「何でか解らないけど、もしかしたら治るかもしれない」と思い、今週なるべく早い時期にもう一度治療に行こうと決めていた。なつみさんは笑顔で「でしょ?」って一言。

二回目の治療で痛みがかなりなくなったのだが、先生は「西嶋さん。気功は治療されているだけでは結局元に戻ってしまうのです。そもそも気功というのは、“人間が持っている治癒力”を最大限に引き出すための能力開発法であって、自分でやるものなのです」と言われたのです。実際、たった2回で痛みがほとんど消えたこれを、自分で手に入れることが出来るのであれば、当然自分でやるべきだと、8月から気功教室に通い始めた。

何度、妻を誘ったことかわかりません。1度つれて行ったけど、結局妻はサウナの方がいいって言う。無理やりやらせておけばよかった。後悔先に立たずというわけだ。しかし、もしかしたら僕は妻を治すために気功を始めていたのかもしれない。そんな思いで、毎日ベッドサイドから妻へ気を送りつづけている。それは今も変わらない。一般的に奇跡といわれる状態までは、妻を回復させるつもりだ。医者はいい話はしないが、誰がなんと言おうと「奇跡」を「普通」のことと信じてやりぬくつもりだ。何より大切なのは、妻自身が己の力を信じて、気持ちをしっかりと持ってやりぬくことだ。その覚悟があるから、この世に残ったのだろう? 僕はしっかりサポートをする。必ず出来るだろうとは思っていた。

<白雪姫プロジェクト>
ところが、先週の日曜日、3月24日に白雪姫プロジェクトと出会い知ったこと。それは、しっかりとリハビリをやっていけば、当たり前なこととして回復の可能性があるというのだ。僕は奇跡をおこそうと考えていた。しかし、奇跡は確率が低いから、周りから奇跡だと思われるわけだ。なんと、奇跡ではないのだ。何方かと言えば、奇跡じゃないほうがいいのだ。当たり前なこととして、努力が出来る。それは、どれだけ希望に満ちた考え方であろうか。本当に出会えてよかったと思った。その晩すぐに山元加津子さんにメールをした。忙しい方だから、返信など期待していなかったが、すぐに返信をいただけて、またびっくりした。そして、そのやりとりの5日後には、このブログを立ち上げることとなった。僕自身にとって、この3年間をしっかりと振返り、未来に向う、そんなチャンスとの出会いでもあった。

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未分類 | 21:37:20 | トラックバック(0) | コメント(1)
ベッドサイドからの景色(2)
ベッドサイドへ通う毎日は、夢の中を歩いているようだった。
夢といっても悪夢なのか、現実なのか?なんか、地に足がついていないというような感じなのだ。昨日まで当たり前だったものが、今日はもう何もない。どうして?とつい思ってしまう。そう言えば、父が他界したあと、母はいつも父が座っていた椅子にむかって、「ねぇ、おとうさん。あぁ、居なかったんだ。ははは」 といつもそこに居たはずの父に、つい話しかけるということがあった。そのときに、妻は生きているが、母もこんな感じだったのだろうな・・・と思った。

気管切開手術を受けることを決定したのは2月25日、主治医の先生と話をして決めた。
病状は最低限の処置で安定していて、命の危機からはひとまず脱したと考えていいとの事だった。
この段階では、気道確保の太い管を口から気管へ入れているが、これはいつまでも続けるわけにいかないといいうことだった。また自力だけで呼吸しても、酸素吸収能力に限界があるため気管切開手術をうけることにしました。肺炎の悪化を防げるし、本人も楽に呼吸ができるというメリットがあるとの説明をうけた。
ただし、すべて良い事だけでなく、気胸になる危険性もあるとのことだった。
週明けすぐ3月1日には手術となり、気胸の問題もなく手術は順調に行われた。
口いっぱいにほおばっていた呼吸のための太い気道確保チューブがなくなり、少し楽になったように感じる。
「ノドに穴あけちゃったけど、まっ許せ。こっちのほうが少し楽になるはずだよ。」と声をかけた。

この頃は、毎朝病院へ行ってから出社していたが、目を閉じたままの妻は、このまま植物状態の一生なのか?と不安な日々を過ごしていた。この頃に書いた日記を見つけた。目を開けた瞬間を、日記に記録していた。
3年ぶりに読み返してみたが、このときの喜びはいまでもはっきりと覚えています。

<2010年3月5日の日記/妻が目を開けた日>
3月5日(金)、この日のことは一生忘れないだろう。
薄く目が開いたような気がしていたが、まさかそんな早く、、、先生だって、一生このまま目が開かないかもしれないって言っていたし、気のせいかな?と思っていた。この日、朝から足のマッサージをしていた時のこと、「あれっ?あれれっ?おい、清美!それ目開いてるんじゃねぇの?」ってわけで、いきなり目を開きました。もう「バンザーイ!バンザーイ!」「ねぇ、ほら、見て、これ。目、開いてるよね?ねっ?ほら、ほら」と涙がボロボロ溢れ出す。若い看護師さんたちの前で、ボロボロ泣きながら声をかけました。皆に見てもらいたかった。君が目を覚ましたことを全員に知ってほしかった。まず、基輝、悠生にメールした。

<3/5 10:12 息子たちに送信したメール>
目をあけた! 
見えているかどうかは分からないけど、しっかり目をあけました! 
一回まばたきしてとリクエストしたらやりました! 
明日、目をあけた清美にあえるよ!日野には今夜くる?明日くる? 
\(^O^)/

次に会社の人たちにもメールした。会議に遅刻してしまっているけど、もう少しベッドサイドに居たかった。清美の九州の友達にもメールした。清美のお兄さんに電話した。清美のおじさんに電話した。私の友人たちにもメールした。とにかく、
みんなに知ってもらいたかった。この日、目を開けた清美に祝福のメールが鳴り止まなかった。
皆がくれたメールは、清美が目が見えて、読めるようになったら見せてやろうと永久保存版にした。

<祝福メール永久保存版>
やったあ  凄い 清美さんもだけど西嶋さんの愛情も凄い  
届いたんですよ(^O^)  感無量です\(^-^)/  おめでとう  
これから春だから新陳代謝も上がり、必ずいい方向にいくはず  
諦めず元気になった清美さんを強くイメージしてください  
私も元気に退院することを信じています  ☆わたなべなつみ☆ 

西嶋さん、本当に本当によかったですね 昨日西嶋さんに連絡しようと思ってたところで心配していましたので最高に嬉しいメッセージです。これか らのリハビリも大変でしょうが喜びのリハビリだと思いますので頑張ってくださいね。私に出来ることありましたら何でもおっしゃってく ださいね。またご連絡させて頂きます。宮崎都 

よかったですね。本当に目で会話ですね。 まずは、開かれ一歩ですか。 
リハビリがんばってください。 かたやま 

おめでとうございます!他に言葉が見つかりません。当分気が抜けないとは思いますが、
西 嶋さんも体調にお気をつけください。遠くから応援しております。 翁長

よかった! きっと全快なさいますよ。 ほんとによかったー  小笠原

おはよー♪ 清美さんも貴丸くんも頑張ったね よかった~  ま た会いに行きますね♪ Machiko 
やりましたね  メールを見て寺本さんに伝えながら涙ぐんでしまいました  ほんと、嬉しいです。 糸賀

よかったです~o(^-^)o  メールありがとうございます。 
待ち遠しい瞬間でしたね。ホントよかったです。目覚めた時にご主人いてよかったですね。
清美ちゃんも嬉しかったはずです。 私も早く清美ちゃんに会いたいです。 道岡

そりゃすごい! 早速、今日いきます。 楽しみだ。 藤勝

本当に!?すごい! 日野には明日行きます! 意識があるってことなのかな??
目もずっと閉じてたからまだ眩しくて見えないのかもね!早く見えるようになるといいね  ゆうき

驚きました~。昨日の夕方のニュースで  昏睡状態だった人が 三週間後に目覚めた話を聞き 
清美ちゃんもそれくらいなるのかな~と思ってそろそろ起きてくれるのでは?と思ってた所でした。
本当に良かった!V(^-^)V  新田裕美

本当によかったね。着々とキセキが起こってるね。今度は楽しみに行きます。行方

やったね よかった その病院にいる間に目をあければそこでリハビリができるはず。
他にいかなくてすむのではー またいきます  まや子

基輝からは、電話があり。仕事を早く上がり、のんき、悠生と本日、病院へ向かうとのこと。
さちこママは、メールを見て夢かと思ったと電話があった。
健二おじさんも、心配していたので、希望が見えたと喜んでいた。
秀則兄さんも、本日、母親の病院へ行くので、報告しますということだった。
みなさん本当にありがとう。目に見えない力が清美を支えてくれている。 

この日は、因幡晃さんの神奈川県民ホールでのコンサートだった。
昼間にメールもしていたがコンサート前に間に合いそうだったので、すぐ横浜へ行き楽屋を訪ねた。
心から喜んでくれた。人は本人の知らないところで、本当はいろいろな方々に支えられているのだと感じながら、感謝の気持ちでコンサートを見た。隣に清美がいればいいのにと思いながら。

未分類 | 11:42:59 | トラックバック(0) | コメント(0)
こんな日もある。
こんな日もある。3daysa続けて、いい感じでハードなリハビリが出来ていた。さぁ、今日もやるぞ!と病院へむかったが、外が暖かかったこともあり、熱があって目が開かなかった。それでも以前に比べれば大した熱ではない。僕が計った段階では37.5℃。以前はすぐ38〜40℃ということがあった。

不思議なんだけど、外気と連動して発熱したら、低体温になったりする。病院内は一定の温度なのに、何故か外気と連動するように感じる。もちろん、うまく調整できていることもあるんだけど、脳幹は原始的な脳だから、そんなことを感じるのかもしれない。

仕方がないので、ひたすらマッサージすることにした。足が尖足になってしまっているのは残念だが、これも気合いいれて、気長に10年がかかり治していこう。足首に話しかけながら「ほら、ここね。ここ。そうアキレス腱のところね、これが固すぎるよ。そんなに緊張しなくていいんだ。清美、君からも言ってくれ。心配するな、もっとゆっくりしていいんだってね。」もちろん、妻は無言で目を閉じている。今日はうなずきもしないし、目も開けやしない。

「いいんですいいんです。そんな日もあります。ここ3日間はハードな特訓をしたから、今日は休憩しましょう。やさしいでしょ?でもねー。でもねー。ベッドの背中は直角にして、すわりましょうーね。頭にはアイスノン、目は閉じたままでも座りましょうね。あのね、重力はぼくらの味方なんだ。脳幹にとっては特にね!」などと話しかけながら、無視されているようで、少し淋しいながらも、元気に振る舞う(笑)

1時間で熱は0.3℃下がった。夕方に理学療法のリハビリが入っている。それまでに、少しでも熱は下げられれば、リハビリをやる気持ちになるかもしれない。などと、マッサージをしていたら、オムツ交換になったので、退散。
うまくやってね。

そう、僕はなかなか社会とうまくやれないことがある。どうも、心と仕組みがかみあわなかったりする。
そんなとき、いつも「うまくやろう」と自分に声をかける。どうすればいいとか、ルールはない。
うまくやる気持ちが大切なんだ。だから妻にも息子にも、「うまくやれよ」ということにしている。

そんな僕は、なかなか上手くやれない。

未分類 | 02:01:41 | トラックバック(0) | コメント(0)
ベッドサイドからの景色(1)
妻が倒れて3年が過ぎた。4年目は特別な時期にしていきたいという思いがあり、どうすればいいのか?と考えていた時に、白雪姫プロジェクトに出会えた。「これだ!」と思った。山元さんへすぐメールを出してやりとりが始まった。それで、この3年を振り返りながら、未来を見つめるという作業をやってみようと思うようになった。それを、この「ベッドサイドからの景色」と題して、書いていこうと思います。



2010年2月2日、24回目の結婚記念日は僕が高校生の時に出前のアルバイトをしていたお寿司屋さんに食事に行った。その時に、翌年25回目の銀婚式にはハワイにいこうと決めた。結婚したときは長男がお腹にいたので、僕たちの新婚旅行は伊豆の温泉だった。二人でゆっくり海外という経験がないまま、24年が経ち、子供たちも成長し、そろそろそんな贅沢もしてもいい時期だろうと思っていた。ところが、2月13日に妻は脳幹出血で倒れた。あっという間に僕たちのハワイ行きの計画はなくなった。ハワイどころではない日々が始まることになった。

<昨日と同じ今日はない>
毎日というのは、そんなに変化がなく、だいたい同じ繰り返しだと思っていたし、そう思っている人は多いと思う。
それを、徹底的に叩き潰されたのは、2010年の2月のことでした。

3年前の2/13(土)は、小雪がちらつき、とても寒い日だった。この日、僕の中学時代の友達があつまる飲み会があったのだけど、僕が翌期予算を作り上げなくてはならない時期だったので、参加できなくなったその会に、妻だけが参加することになっていた。以前、この飲み会に妻を連れて行ったことがある。僕の友達はみんなバカばかりなんだけど、妻は心の底から楽しかったようだ。そこで僕は午前中に気功教室へ行ってから仕事へ、妻はサウナ&プールでゆっくりしてから、その後は僕の(いい意味での)バカ友人たちとの飲み会へいく予定だった。

妻は立川の南口で、スポーツクラブのすぐそばの喫煙所で倒れた。

街頭での監視カメラで警察が見つけてくれたそうだ。あんなの真面目に見ている人がいるのだなと、びっくりしたものだが、それが妻の命を救ってくれることになったのでした。外でしたので、すぐ救急車に乗れたのは不幸中の幸いでした。これが家の2階の部屋で一人でいれば確実に手遅れだったことでしょう。きっと、たばこを吸った瞬間に、殴られたようなショックがあっただろう。その時妻は、長男に電話した。僕は気功の呼吸法をやっていて電話にはどちらにしても出なかっただろう。長男は電話を受けたが、何を言っているのかわからないまま切れたそうです。すぐに長男か妻へ電話をかけ直したところ、妻は電話に出たのですが、すでに言葉は話せない状態だったようです。その時の混乱、助けをもとめる気持ちを考えると、今でも苦しくなります。その後、救急車に運ばれた前後のことでしょう、警察から長男へ電話がありました。妻の携帯を使って、最後の発信者であり、着信者であった電話番号に電話したわけです。

僕には長男から電話がありました。会社に到着した直後のことでした「おう、めずらしいな、どうした?」と声をかけたところ、長男が少し慌てながら「お母さんが倒れて、立川の北口の●●病院へ救急車で運ばれたから、すぎ行って。僕たち(長男と次男)もすぐ行くから」ということだった。

以前に、サウナで貧血を起こした事がある妻に、いつも入り過ぎは危ないよと注意していたので、僕はてっきりサウナで気を失ったのかな?危ないなぁ。と思いながら、会社を飛び出しました。しかし、この段階ではまさか、命の危機とまでは思っていませんでした。長男からの電話をうけたのが、たしか16時頃。病院へは17:30くらいに到着したと思います。

集中治療室のベッドの中で、妻は口や、鼻、体にコードやチューブが差し込まれていて、いったい何が起こっているのか?目の前の状況を見ても、どう考えていいのか?混乱しました。担当医の先生から、脳幹出血という脳溢血の中でも一番危険な出血であること。命が危機的な状態であること。こんな状態で、いきなりで悪いが、呼吸が止まる可能性があり、その場合に、人工呼吸器をつけるかどうか?の判断を早急にしてほしいこと。などを告げられた。混乱しながら中学時代の友人へ妻が飲み会へは行けなくなったとキャンセルするために電話した。友人はすぐに飛んで来てくれた。我が家の危機のときに真っ先に駆けつけてくれるのは、いつもこいつだ。息子がバイクで事故を起こしたときも僕より先に駆けつけてくれた。その時に友人へ何を言ったかは憶えていないが、たぶん妻はもうだめだろうという話をしたのだと思う。子供たちは、18:30頃に到着したように記憶している。子供たちの前で、人工呼吸器については取り付けない方針で行くという話しをして、子供たちも同意してもらった。すぐに先生へ「人口呼吸器は付けません。取り付けないことによって死亡しても、それが妻の寿命であるという判断です」ということを伝えた。ここでも法律の矛盾を感じるのであるが、人工呼吸器を取り付けて、回復へ向かえば何も問題はないが、人工呼吸器のみによって生きている状態がつづき、回復の見込みがないとなっても、取り外すことがイコール死亡する場合は殺人罪となるということだった。機械だけで生かされ、体は痩せ細り、見るに耐えない姿になって行ったとしても、それでも人工呼吸器の取り外しによる死亡は、殺人というわけだ。社会には様々な矛盾があり、それも人生の一部であると思いますが、この最悪なケースに直面したら僕はきっと殺人犯になると思います。子供たちが同意してくれて、本当によかった。ここで意見が割れたらそれはそれで、不幸な関係が生まれるからです。

僕はとにかく妻のそばにいたかった。息子たちも同じ気持ちだっただろうが、泊りるの自然と僕に担当させてくれた。いつ逝くかわからないと言われた、一番危ない3日間は、僕に泊り込みをさせてくれた子供たちに心から感謝をしている。正直、妻は助からないと思っていた。なので、いつ逝ってもいいように、そばにいたかったのだ。僕が見守り手をにぎり、見送るつもりだった。

気がつくとたまに呼吸が止まっている。最初はびっくりした。覚悟はしていたが、「そんなに早く逝かなくてもいいじゃないか。なんで急ぐのだ?」と。倒れた日の夜中、妻が呼吸を何度目かに止めたとき「清美、もう無理するな。そろそろゆっくり休んでもいい、先に逝ってもいいよ」と声をかけました。僕らの気持ちが妻の命を、無理に引き止めてしまい、その結果妻を苦しめたくはないと思った。

この時に、何度も何度もくり返し押し寄せる感情が、涙とともに吹き出してきて、それを手帳に書きとめました。今思えば、あの時、ぼくの心のキャパシティはいっぱいで、気持ちを詩にして吐き出したかっただけかもしれない。そう、吐き出す・・という言葉がぴったりな感情だった。うろたえながら、余計なことを考える。妻の親族や友人へ連絡しなくちゃとか、葬式の準備はどうしたらいいだろうとか、、、今思えば異常である。
今日は昨日の続き、明日は今日の続き、それでそんなに変わることはない。
そんな毎日を過ごしていた僕に、昨日と今日の違い、取り返しのつかない違い、
時の流れに、頭を殴りつけられ、どうしていいのか、わからない気持ちだった。
「無常」ということを、この頃から意識するようになった。

<ベッドサイド>
その晩、ぼくだけが妻のところに泊まった。
いつ逝ってもおかしくない状況だった。
すぐ目の前の妻にベッドサイドから声をかける。涙が目からはみだす。
先に旅立つ妻にも届くようにと詩を書きながら、聴こえないだろう妻に声をふるわせながら朗読した。

「ベッドサイド」

昨日と今日とが、こんなにも変ってしまうなんて

考えたことがありませんでした

君はいつも隣にいて、それはあたりまえの事でした



今君はベッドの中で眠っているようです

コードやチューブが、口や鼻からさしこまれているのに

苦しそうな顔もみせずに



魂が一緒にいると信じていても

話したい 見つめたい 声を聞きたい

こらえても こらえても

くり返し押し寄せる悲しみの波





旅立つその時を ひっそりと窺っているように

時々こっそりと呼吸(いき)を止めている

いつも周りを気遣って、自分の事はいつも後回しだね



今君はベッドの中で眠っているようです

肌の温度が生きていることの証なの?

苦しそうな顔もみせずに



魂が一緒にいると信じていても

話したい 見つめたい 声を聞きたい

こらえても こらえても

くり返し押し寄せる悲しみの波




※これは、妻が倒れた日の深夜に書き留めた言葉でした。

 その後、この言葉に因幡晃さんがメロディーをつけてくれて楽曲になりました。

 多少の言葉の変更がありますが、ほぼこの言葉のままで歌ってもらいました。

 それは、因幡晃さんの35周年記念アルバム「まん丸の蒼い月」に収録されました。




因幡さんとは不思議な縁だ。妻が若い頃に働いていた代々木のお店「DO(ドウ)」の常連客だったそうだ。

この事を知るのは、僕が因幡さんのマネージャーをやることになったときにわかった。僕が妻に「因幡晃さんのマネージメントをすることになった」と話した時に、妻は「私、因幡さん知っているわよ、よくお店に来ていたから」って言われて、びっくりしたものだ。

あれは妻の乳癌が発見された1999年だったかな。僕たちの第一回目の人生絶望期だ。抗がん剤で、頭がツルッパゲになった。笑い飛ばそうと、抗がん剤がちゃんと受けられた日は、ご褒美に近所の居酒屋に行って二人でお酒を飲んだ。抗がん剤の副作用が来る前に少しだけ楽しい思いをして、次の日からはぐったりと一週間寝込み、起き上がれるようになるとまた次の抗がん剤投与というくり返しだった。あの時もすごかったけど、ちゃんと乗り越えた。

今でもはっきりと覚えている。聖マリアンナ病院で告知を受けた。

乳癌は約7cmあり、かなり大きく、全身転移を前提として治療をはじめる。まずは抗がん剤投与からとなり
この抗がん剤が効かなくなったら手術をする。しかし、全身癌と考えて、長い闘いになることを覚悟してください。・・・というものだった。この日、家に帰っても何も話すことが出来ず、ただただ二人で抱き合って泣いた。まだ中学だった長男が帰ってきて私たち二人をずっと見ていて、しばらくしてから「もう、いいかげんに泣くのやめろよ。俺、バスケ部辞めて、いつもそばにいてやるからさ」って言った。僕は「あぁ、こんな風に勇気づけるセリフは俺が言わないといけないのに、まいったな」と泣きながら思った。

ハゲになっても、いつも僕たちは明るく笑いとばしながら生きていた。不安もなにもかも、みんなで乗り切った。手術が広範囲で左胸はすべて切除され、その痕はサイボーグというか、フレンケンシュタインみたいだったが、それもサイボーグだと笑った。その左胸の消毒を、長男にやらせているのを見つけると「そりゃ、やっちゃダメ。年頃の男にとって、おっぱいはもっとエッチでなくてはならない」と僕が言っても、「だって、自分じゃ見れないんだもん」と言って、いつもお風呂あがりの消毒は長男に頼んでいたようだ。

2000年に手術してから10年、やっと今年は癌の恐怖から開放される予定だった。
2001年には胆嚢摘出手術をしたら、良性で癌ではなかったりと、妻はいつも壁にぶちあたるが、いつだって乗り越えて来た。来年は銀婚式の祝いで、始めて二人でハワイに行こうと話しをしていた矢先に妻はまた、新しい問題を自分と家族に突きつけた。

僕はいくらなんでも、今回だけは、ついにサヨナラだと思った。こんなサヨナラがあるのかと、胸が苦しかった。ベッドサイドから妻へ話した言葉を覚えているだろうか?「清美、もういいよ。先に逝ってもいいよ。無理にこの体にいなくても、先に休んでいいんだよ。俺はもうすこしこっちにいるよ。子供たちのこともあるからな。上から見ていてくれればいいよ。がんばるよ。」

しかし、4日目の朝を迎えた時「あれ?生きてるなぁ、こりゃぁこの世に残るつもりなのだ!」と確信した。まだやり残しがあるのだ!どうしても“自分でやらないと気がすまないこと”が残っている!それは息子たちを見届けることだろう。それ以外にないはずだが、それならそれでいい!もう少し今生で一緒に生きていけるのだと確信し、翌日から会社へ出社することを決めた。妻がこの世に残るのであれば、この闘いは長丁場だ。

なんせ、息子たちの卒業、就職、結婚、孫、、、とどこまで見守るつもりか知りませんが、妻はとにかく見届けるつもりなのだろう!見届けさせてやる!!僕も息子たちも、もちろん妻も、長い闘いをやりぬくと宣言しなくてはならない。妻のベッドサイドで、僕と息子たちとで「これから長い闘いが始まる。それぞれが、それぞれの役割を果たしながら、しっかりと自分の健康も守りながら、闘いに乗り出していく。基輝(長男)はまず就職が決まったら仕事を優先し、自分の食い扶持を稼げ。俺は働き始める。」と妻に聞えるように戦闘開始の宣言をした。

4日目の夜からは、この時は無職だった長男と、春休み中だった次男が約2週間交代で病院へ泊り込みをしてくれた。思う存分それぞれがちゃんと、心を込めて看病ができる環境だった。そして、病院の看護師さんたちがとても丁寧で安心できた。このために、それぞれが自分の道に戻る決心もつきやすかった。倒れたことは最悪だったが、倒れた後の現実の中で考えると、最高の条件が揃っていた。

みなの方針が決まった時に大部屋が空いた。タイミングがいい。1日1万円の個室を2/26(金)に出て、大部屋に移った。長丁場だ、お金も節約しなくてはならない。その後、長男は郵便局の配達の仕事が決まり、3月から働きはじめた。次男はまだ学生だが、自炊、洗濯を担当し生活のランニングコストを抑えはじめた。妻は寝ているだけで、みなの心を鷲摑みにして正しい道を生きるようにと言っている。

誰も妻に逆らうことはできないし、息子たちはどうやっても曲がることも出来ないだろう(笑)
妻の究極の子育てがはじまったわけだ。そして、僕のベッドサイドの生活が始まった。

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秘密兵器
母から拝借した帯

3月24日に白雪姫プロジェクトの山元さんの講演を聞き、早速「身体をしっかり起こして座る事」をはじめてみることにした。車椅子にのせてから、身体をなるべく立たせ、背もたれから背中を解放してあげようとすると、これが難しい、身体を起こしながら、首を支えなくてはならないので、こちらの体勢がうまくいかない。簡単だと思っていたことが、出来るには出来るが、こちらの体勢が続かないのだ。

それで考えたのがこのアイデア。母の着物の帯を拝借し、妻の背中をまわして、ぼくの腰に結ぶ。長さを調整して、腰を引くと車椅子が手前にズレそうになるが、それを足のスネでストップさせながら妻の背中を立たせて座らせる。それで右手で頭を支えて、左手で撮影した写真がこの写真。帯にバランスをとって腕をのせてみた。妻も気持ち良さそうで、背中が解放される感覚というのがよいのがわかる。しっかり座らせると、帯のテンションを緩めても、頭を支えるだけで座っていられる。この体勢だと、首の運動もしやすい事がわかった。

「さぁ、首を動かしてみよう!動かせる方向へ動かしてみて!」と話しかけると、かすかに頷きの運動を始めた。1、2、3、4・・・連続して、動かしている。これはスゴイ。スゴイスゴイ!と声をかける。それから、帯のテンションを計算しながら、身体を左右に、グラーングラーンと傾けてみる。様々な方向へ動かしてみながら、30分。ハードなリハビリスタートとなったが、妻はがんばってくれた。そして、前向きな気持ちも伝わってくる。

30分のハードな特訓が終わったら、今度はリハビリの効果を話しながら、お花見。さすがに疲れたのか、背もたれを少し斜めに寝かせたときには目を閉じてしまった。「この満開の桜もこれから散り始めるから、今年は見納めだよ。」と耳のそばで声をかけると、桜をしばらく見つめていた。そのあとは、ベッドにもどってマッサージだ。山元さんは宮プーの関節を毎日100回づつ動かすらしい。凄すぎる。今日は50回づつで許しておこう。100回は僕が保たない(笑)

最後の仕上げに足うらのマッサージをしていたときに、ちょっとくすぐってみたら、ビクビクビクと足を動かす。びっくりして、何度かやってみる。やはり動く!確かに反射なのだろうけど、動くのだ。妻の目を見ながら「ねぇ、足のうらくすぐったいの?」と話しかけると、「うん」というように、まばたきをする。というこは、感覚があるということではないのか?不思議だなぁ。これからが楽しみだ。しかし、この母親から拝借した着物の帯、大変役立つ。これは、マジックテープなどで長さ調整をしやすくすれば、介護用品として商品になるのではないか?などと考え、自分でいいアイデアだと思うが、ほめてくれる人がいないので、妻にコミュニケーションがとれるようになったら、まず最初にこの帯のことを褒めてほしいと依頼しておいた。いいアイデアだと思うのだが・・・どうなんだろう?


未分類 | 22:50:52 | トラックバック(0) | コメント(0)
新しい人生
妻が倒れてから3年が経った。人生は想像もつかないようなこともある。
僕の人生の予定はすべて計算が狂ってしまった。
しかし、この3年間を考えてみると、そのすべてが最悪だけな人生ではない。
人間は生きていれば、悲しみも苦しみもあるけど、必ず喜びもあるものなのですね。
詳しく書くと、それだけで大量な文字が必要になるので、割愛しますが、
妻が倒れたことがきっかけで、長男が結婚することになった。
そうして、昨年、初孫と対面できあた。
今年になり次男の就職が決まった。介護用品のレンタルの会社である。
きっと、面接で、会社の志望動機を聞かれたのだろう。たしかに必然性がある。
次男が就職できたのもたぶん、妻のおかげだろう。

人生には、色々な時期がある。
人生は永遠だと感じていた若き日々。
眠る事も惜しみながら働くのが面白かったドタバタな時期。
妻と出会い、結婚してから、夫、父としての時期。
1999年、妻の大きな乳癌がわかり、命について考え始めた時期。
2010年妻が脳幹出血で倒れてからの人生。と、色々な時期があるものだ。
これから僕らが死ぬまでに、何が出来るだろうか?と考えてみるが、
考えすぎても始まらない。目の前の妻の回復へ進むことにしようと思う。

そんなときに、白雪姫プロジェクトと出会った。
面白い事に、出会いのタイミングはいつもちょうど良い時にやってくる。
これからは回復を奇跡と考えず、やる事をやれば回復することを知ったので、
そう考えて、リハビリをフォローしていける。

いままでは毎日に余裕がなく、振返ることが出来なかったが、
ここらへんで、この3年間を振返ってみたいと思い出していた。
白雪姫プロジェクトのかっこちゃんからの勧めもあり、背中をおしてもらい
このブログを書いてみようと思いました。
そうして、これからが、また新しい人生の一歩になる予感がしています。

このブログ「夢の雫」は、僕が妻へプレゼントした曲のタイトルです。
毎日、涙をふきながら駅までの道を歩いていた時、
この涙は回復(夢)へ向かう為の雫なのだと感じた。
https://www.youtube.com/watch?v=LkroQujetQk これがその曲です。
曲が出来た経緯や、この3年の中での感じた、社会の仕組みの困ったこと等など。
色々ありすぎて、うまくまとめられるか心配ですが、今日から少しづつ書き始めてみます。

未分類 | 10:53:09 | トラックバック(0) | コメント(0)

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