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T.Nishijima

Author:T.Nishijima
2010年2月に妻が脳幹出血で倒れる。2013年3月に白雪姫プロジェクトと出会い、積極的なリハビリアプローチを始めるため、その回復への道のりを記録しようと日記をはじめました。また、このプロジェクトの存在を知ってもらいたいと思っています。
http://www.shirayukihime-project.net/

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ベッドサイドからの景色(1)
妻が倒れて3年が過ぎた。4年目は特別な時期にしていきたいという思いがあり、どうすればいいのか?と考えていた時に、白雪姫プロジェクトに出会えた。「これだ!」と思った。山元さんへすぐメールを出してやりとりが始まった。それで、この3年を振り返りながら、未来を見つめるという作業をやってみようと思うようになった。それを、この「ベッドサイドからの景色」と題して、書いていこうと思います。



2010年2月2日、24回目の結婚記念日は僕が高校生の時に出前のアルバイトをしていたお寿司屋さんに食事に行った。その時に、翌年25回目の銀婚式にはハワイにいこうと決めた。結婚したときは長男がお腹にいたので、僕たちの新婚旅行は伊豆の温泉だった。二人でゆっくり海外という経験がないまま、24年が経ち、子供たちも成長し、そろそろそんな贅沢もしてもいい時期だろうと思っていた。ところが、2月13日に妻は脳幹出血で倒れた。あっという間に僕たちのハワイ行きの計画はなくなった。ハワイどころではない日々が始まることになった。

<昨日と同じ今日はない>
毎日というのは、そんなに変化がなく、だいたい同じ繰り返しだと思っていたし、そう思っている人は多いと思う。
それを、徹底的に叩き潰されたのは、2010年の2月のことでした。

3年前の2/13(土)は、小雪がちらつき、とても寒い日だった。この日、僕の中学時代の友達があつまる飲み会があったのだけど、僕が翌期予算を作り上げなくてはならない時期だったので、参加できなくなったその会に、妻だけが参加することになっていた。以前、この飲み会に妻を連れて行ったことがある。僕の友達はみんなバカばかりなんだけど、妻は心の底から楽しかったようだ。そこで僕は午前中に気功教室へ行ってから仕事へ、妻はサウナ&プールでゆっくりしてから、その後は僕の(いい意味での)バカ友人たちとの飲み会へいく予定だった。

妻は立川の南口で、スポーツクラブのすぐそばの喫煙所で倒れた。

街頭での監視カメラで警察が見つけてくれたそうだ。あんなの真面目に見ている人がいるのだなと、びっくりしたものだが、それが妻の命を救ってくれることになったのでした。外でしたので、すぐ救急車に乗れたのは不幸中の幸いでした。これが家の2階の部屋で一人でいれば確実に手遅れだったことでしょう。きっと、たばこを吸った瞬間に、殴られたようなショックがあっただろう。その時妻は、長男に電話した。僕は気功の呼吸法をやっていて電話にはどちらにしても出なかっただろう。長男は電話を受けたが、何を言っているのかわからないまま切れたそうです。すぐに長男か妻へ電話をかけ直したところ、妻は電話に出たのですが、すでに言葉は話せない状態だったようです。その時の混乱、助けをもとめる気持ちを考えると、今でも苦しくなります。その後、救急車に運ばれた前後のことでしょう、警察から長男へ電話がありました。妻の携帯を使って、最後の発信者であり、着信者であった電話番号に電話したわけです。

僕には長男から電話がありました。会社に到着した直後のことでした「おう、めずらしいな、どうした?」と声をかけたところ、長男が少し慌てながら「お母さんが倒れて、立川の北口の●●病院へ救急車で運ばれたから、すぎ行って。僕たち(長男と次男)もすぐ行くから」ということだった。

以前に、サウナで貧血を起こした事がある妻に、いつも入り過ぎは危ないよと注意していたので、僕はてっきりサウナで気を失ったのかな?危ないなぁ。と思いながら、会社を飛び出しました。しかし、この段階ではまさか、命の危機とまでは思っていませんでした。長男からの電話をうけたのが、たしか16時頃。病院へは17:30くらいに到着したと思います。

集中治療室のベッドの中で、妻は口や、鼻、体にコードやチューブが差し込まれていて、いったい何が起こっているのか?目の前の状況を見ても、どう考えていいのか?混乱しました。担当医の先生から、脳幹出血という脳溢血の中でも一番危険な出血であること。命が危機的な状態であること。こんな状態で、いきなりで悪いが、呼吸が止まる可能性があり、その場合に、人工呼吸器をつけるかどうか?の判断を早急にしてほしいこと。などを告げられた。混乱しながら中学時代の友人へ妻が飲み会へは行けなくなったとキャンセルするために電話した。友人はすぐに飛んで来てくれた。我が家の危機のときに真っ先に駆けつけてくれるのは、いつもこいつだ。息子がバイクで事故を起こしたときも僕より先に駆けつけてくれた。その時に友人へ何を言ったかは憶えていないが、たぶん妻はもうだめだろうという話をしたのだと思う。子供たちは、18:30頃に到着したように記憶している。子供たちの前で、人工呼吸器については取り付けない方針で行くという話しをして、子供たちも同意してもらった。すぐに先生へ「人口呼吸器は付けません。取り付けないことによって死亡しても、それが妻の寿命であるという判断です」ということを伝えた。ここでも法律の矛盾を感じるのであるが、人工呼吸器を取り付けて、回復へ向かえば何も問題はないが、人工呼吸器のみによって生きている状態がつづき、回復の見込みがないとなっても、取り外すことがイコール死亡する場合は殺人罪となるということだった。機械だけで生かされ、体は痩せ細り、見るに耐えない姿になって行ったとしても、それでも人工呼吸器の取り外しによる死亡は、殺人というわけだ。社会には様々な矛盾があり、それも人生の一部であると思いますが、この最悪なケースに直面したら僕はきっと殺人犯になると思います。子供たちが同意してくれて、本当によかった。ここで意見が割れたらそれはそれで、不幸な関係が生まれるからです。

僕はとにかく妻のそばにいたかった。息子たちも同じ気持ちだっただろうが、泊りるの自然と僕に担当させてくれた。いつ逝くかわからないと言われた、一番危ない3日間は、僕に泊り込みをさせてくれた子供たちに心から感謝をしている。正直、妻は助からないと思っていた。なので、いつ逝ってもいいように、そばにいたかったのだ。僕が見守り手をにぎり、見送るつもりだった。

気がつくとたまに呼吸が止まっている。最初はびっくりした。覚悟はしていたが、「そんなに早く逝かなくてもいいじゃないか。なんで急ぐのだ?」と。倒れた日の夜中、妻が呼吸を何度目かに止めたとき「清美、もう無理するな。そろそろゆっくり休んでもいい、先に逝ってもいいよ」と声をかけました。僕らの気持ちが妻の命を、無理に引き止めてしまい、その結果妻を苦しめたくはないと思った。

この時に、何度も何度もくり返し押し寄せる感情が、涙とともに吹き出してきて、それを手帳に書きとめました。今思えば、あの時、ぼくの心のキャパシティはいっぱいで、気持ちを詩にして吐き出したかっただけかもしれない。そう、吐き出す・・という言葉がぴったりな感情だった。うろたえながら、余計なことを考える。妻の親族や友人へ連絡しなくちゃとか、葬式の準備はどうしたらいいだろうとか、、、今思えば異常である。
今日は昨日の続き、明日は今日の続き、それでそんなに変わることはない。
そんな毎日を過ごしていた僕に、昨日と今日の違い、取り返しのつかない違い、
時の流れに、頭を殴りつけられ、どうしていいのか、わからない気持ちだった。
「無常」ということを、この頃から意識するようになった。

<ベッドサイド>
その晩、ぼくだけが妻のところに泊まった。
いつ逝ってもおかしくない状況だった。
すぐ目の前の妻にベッドサイドから声をかける。涙が目からはみだす。
先に旅立つ妻にも届くようにと詩を書きながら、聴こえないだろう妻に声をふるわせながら朗読した。

「ベッドサイド」

昨日と今日とが、こんなにも変ってしまうなんて

考えたことがありませんでした

君はいつも隣にいて、それはあたりまえの事でした



今君はベッドの中で眠っているようです

コードやチューブが、口や鼻からさしこまれているのに

苦しそうな顔もみせずに



魂が一緒にいると信じていても

話したい 見つめたい 声を聞きたい

こらえても こらえても

くり返し押し寄せる悲しみの波





旅立つその時を ひっそりと窺っているように

時々こっそりと呼吸(いき)を止めている

いつも周りを気遣って、自分の事はいつも後回しだね



今君はベッドの中で眠っているようです

肌の温度が生きていることの証なの?

苦しそうな顔もみせずに



魂が一緒にいると信じていても

話したい 見つめたい 声を聞きたい

こらえても こらえても

くり返し押し寄せる悲しみの波




※これは、妻が倒れた日の深夜に書き留めた言葉でした。

 その後、この言葉に因幡晃さんがメロディーをつけてくれて楽曲になりました。

 多少の言葉の変更がありますが、ほぼこの言葉のままで歌ってもらいました。

 それは、因幡晃さんの35周年記念アルバム「まん丸の蒼い月」に収録されました。




因幡さんとは不思議な縁だ。妻が若い頃に働いていた代々木のお店「DO(ドウ)」の常連客だったそうだ。

この事を知るのは、僕が因幡さんのマネージャーをやることになったときにわかった。僕が妻に「因幡晃さんのマネージメントをすることになった」と話した時に、妻は「私、因幡さん知っているわよ、よくお店に来ていたから」って言われて、びっくりしたものだ。

あれは妻の乳癌が発見された1999年だったかな。僕たちの第一回目の人生絶望期だ。抗がん剤で、頭がツルッパゲになった。笑い飛ばそうと、抗がん剤がちゃんと受けられた日は、ご褒美に近所の居酒屋に行って二人でお酒を飲んだ。抗がん剤の副作用が来る前に少しだけ楽しい思いをして、次の日からはぐったりと一週間寝込み、起き上がれるようになるとまた次の抗がん剤投与というくり返しだった。あの時もすごかったけど、ちゃんと乗り越えた。

今でもはっきりと覚えている。聖マリアンナ病院で告知を受けた。

乳癌は約7cmあり、かなり大きく、全身転移を前提として治療をはじめる。まずは抗がん剤投与からとなり
この抗がん剤が効かなくなったら手術をする。しかし、全身癌と考えて、長い闘いになることを覚悟してください。・・・というものだった。この日、家に帰っても何も話すことが出来ず、ただただ二人で抱き合って泣いた。まだ中学だった長男が帰ってきて私たち二人をずっと見ていて、しばらくしてから「もう、いいかげんに泣くのやめろよ。俺、バスケ部辞めて、いつもそばにいてやるからさ」って言った。僕は「あぁ、こんな風に勇気づけるセリフは俺が言わないといけないのに、まいったな」と泣きながら思った。

ハゲになっても、いつも僕たちは明るく笑いとばしながら生きていた。不安もなにもかも、みんなで乗り切った。手術が広範囲で左胸はすべて切除され、その痕はサイボーグというか、フレンケンシュタインみたいだったが、それもサイボーグだと笑った。その左胸の消毒を、長男にやらせているのを見つけると「そりゃ、やっちゃダメ。年頃の男にとって、おっぱいはもっとエッチでなくてはならない」と僕が言っても、「だって、自分じゃ見れないんだもん」と言って、いつもお風呂あがりの消毒は長男に頼んでいたようだ。

2000年に手術してから10年、やっと今年は癌の恐怖から開放される予定だった。
2001年には胆嚢摘出手術をしたら、良性で癌ではなかったりと、妻はいつも壁にぶちあたるが、いつだって乗り越えて来た。来年は銀婚式の祝いで、始めて二人でハワイに行こうと話しをしていた矢先に妻はまた、新しい問題を自分と家族に突きつけた。

僕はいくらなんでも、今回だけは、ついにサヨナラだと思った。こんなサヨナラがあるのかと、胸が苦しかった。ベッドサイドから妻へ話した言葉を覚えているだろうか?「清美、もういいよ。先に逝ってもいいよ。無理にこの体にいなくても、先に休んでいいんだよ。俺はもうすこしこっちにいるよ。子供たちのこともあるからな。上から見ていてくれればいいよ。がんばるよ。」

しかし、4日目の朝を迎えた時「あれ?生きてるなぁ、こりゃぁこの世に残るつもりなのだ!」と確信した。まだやり残しがあるのだ!どうしても“自分でやらないと気がすまないこと”が残っている!それは息子たちを見届けることだろう。それ以外にないはずだが、それならそれでいい!もう少し今生で一緒に生きていけるのだと確信し、翌日から会社へ出社することを決めた。妻がこの世に残るのであれば、この闘いは長丁場だ。

なんせ、息子たちの卒業、就職、結婚、孫、、、とどこまで見守るつもりか知りませんが、妻はとにかく見届けるつもりなのだろう!見届けさせてやる!!僕も息子たちも、もちろん妻も、長い闘いをやりぬくと宣言しなくてはならない。妻のベッドサイドで、僕と息子たちとで「これから長い闘いが始まる。それぞれが、それぞれの役割を果たしながら、しっかりと自分の健康も守りながら、闘いに乗り出していく。基輝(長男)はまず就職が決まったら仕事を優先し、自分の食い扶持を稼げ。俺は働き始める。」と妻に聞えるように戦闘開始の宣言をした。

4日目の夜からは、この時は無職だった長男と、春休み中だった次男が約2週間交代で病院へ泊り込みをしてくれた。思う存分それぞれがちゃんと、心を込めて看病ができる環境だった。そして、病院の看護師さんたちがとても丁寧で安心できた。このために、それぞれが自分の道に戻る決心もつきやすかった。倒れたことは最悪だったが、倒れた後の現実の中で考えると、最高の条件が揃っていた。

みなの方針が決まった時に大部屋が空いた。タイミングがいい。1日1万円の個室を2/26(金)に出て、大部屋に移った。長丁場だ、お金も節約しなくてはならない。その後、長男は郵便局の配達の仕事が決まり、3月から働きはじめた。次男はまだ学生だが、自炊、洗濯を担当し生活のランニングコストを抑えはじめた。妻は寝ているだけで、みなの心を鷲摑みにして正しい道を生きるようにと言っている。

誰も妻に逆らうことはできないし、息子たちはどうやっても曲がることも出来ないだろう(笑)
妻の究極の子育てがはじまったわけだ。そして、僕のベッドサイドの生活が始まった。

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未分類 | 12:22:01 | トラックバック(0) | コメント(2)

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