■プロフィール

T.Nishijima

Author:T.Nishijima
2010年2月に妻が脳幹出血で倒れる。2013年3月に白雪姫プロジェクトと出会い、積極的なリハビリアプローチを始めるため、その回復への道のりを記録しようと日記をはじめました。また、このプロジェクトの存在を知ってもらいたいと思っています。
http://www.shirayukihime-project.net/

■最新記事
■最新コメント
■最新トラックバック
■月別アーカイブ
■カテゴリ
■検索フォーム

■RSSリンクの表示
■リンク
■ブロとも申請フォーム
■QRコード

QR

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


スポンサー広告 | --:--:--
独り言

僕は、妻の足をマッサージしながら、リハビリを眺めていた。

「安全」と「挑戦」、とても両立が難しい、この両者の言葉。しかし、「安全」を意識しながら「挑戦」をしたいのだ。その挑戦する範囲、レベルというものを決定するのが医学の常識というものだろう。でもその常識は本当か?

http://sandgem.blogspot.jp/2013/04/blog-post_26.html?m=1

常に常識は変化する。それは、当たり前と思っていた思い込みが医学の世界にだってある。地球がまるいと言って殺された歴史だってあるのだ。それは大袈裟でしょう。はい、言いすぎました。

問題は、その常識を検討し始めると、システムが崩れるところにあるのではないか。そうなると、多くの患者さんを助けるための、今、回っているシフト、経済、考え方だと足りない問題が出てくる。上手く行っているのに、ワザワザ問題を持ち込まれるのは何処だって迷惑だ。誰だって家族のルールがあるのに、よその人が急に別のルールを持ち込んできて、家にズカズカ上がりこまれたら、それは困るし嫌に決まっている。

しかーし、例外はあってもいいじゃない?どうですか?そんな、かたく考えずに、家族と相談の上の例外。国家の安全を守る時のための特別措置法とかってありますよね。そんな大げさなことじゃなくて、いいんですが、、、

だから、僕は、背中を直角に座らせたいんです。少し斜めの方が、喉の背面に唾液が行くので、誤嚥しにくいのは、そうなのでしょうが、背中は出来れば、本音はもっと立たせてリハビリしてもいいと思っているんです。出来れば立位の練習も。その上、うつぶせもなんですが、全部でなくても良いんです。

と、僕の頭の中のブツブツを拾い上げてみると、こんな言葉が集まった。

頭の中は騒がしい。

スポンサーサイト
未分類 | 16:57:34 | トラックバック(0) | コメント(7)
生命力


アスファルトとドブの隙間から、草花がひょいと顔を出す。無理をしている風もなく、とても自然体である。この花の種はどこからか飛んで来て、たまたまこの隙間に引っかかったのかな?絶妙なタイミングで雨が降り、発芽してその根っこが土を捜してアスファルトの隙間をかき分けて、土を捉えたというわけか。アスファルトの厚さはどれ位なのだろう。限りある時間の中で土にたどり着くための、根っこの成長スピードと水分補給の関係など数多くのハードルをクリアしてこの花はここにいる。涼しい顔をしてるけど、すごいなお前。アスファルトとドブの隙間、すぐそばに目をやるとアリの巣もある。みんな平気な顔してる。

そう言えば、最近の妻はいつも平気な顔している。3年以上言葉もなく、黙々と生きている。1年前は辛いだろう、淋しいだろう、恐いだろう、と心配していたのだが、ここのところは平気な顔をしているように思う。それは、妻のたくましさがそれを表しているのか?僕の気持ちが変わったのかはわからない。しかし、最近はへっちゃらな顔をしている。すごいなお前。

未分類 | 15:33:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
特訓に備えて


素人ながら、特訓に備えて購入したパルスオキシメーター
高額なものだが、備えは必要だろうと思い、かっこちゃんと宮ぷーに会いに行く前に注文しておいた。酸素濃度が90%を切ったままで特訓するのは危険だと思ったから購入した。ところが、その必要は全くなかったのかもしれない。車椅子の背を少し寝かせているときは、ほとんど85%〜89%である。なので、このまま特訓はどうだろう?と心配していたが、背中を背もたれから浮かせて座らせるだけで、みるみる酸素濃度はあがって、すぐ93%程度までいく。

ようするに、身体を横にすると下がる。起き上がると上がる。

人間の身体はきっとこのように出来ているのではないかと思う。ベッドに寝たまま酸素濃度があがらない、だから酸素を気管切開したカニューレカバーに繋いでケアーしてもらっている。ありがたいことだ。だけど、きっと背中を立てることとしっかりと毎日やれば、それで酸素吸収能力はあがっていくのではないかと思う。素人考えなので、わからないけど、背中を立てれば酸素濃度は上がるのは、簡単に実験できるからぜひ試してみてもらいたい。すぐ上がります。

http://www.iryou.info/product/60
色々、自分なりに検討して、安かったのがこれ。
パルスワンPMP100A・・・AとBは数字表示を、患者本人が見るのか?他者が見るのか?の向きの違いで、本人用はB。このサイトのものが、Amazonで販売されているものより、遥かに安い。もしも同じ値段の場合でも、電池が5つおまけでついてくるので、こちらのほうがお得です。

しかし、17,500円・・・・いらなかったかもなぁ〜。

今日は車椅子で、首位置のキープを30分ほどやった。“特訓”のつもりでやっているのだけど、もう軽々とクリアーできる状態になっているので、なんか“特訓”という言葉が当てはまらない感じになっている。なんか、物足りないのだ。端座位の件は次のカンファレンスで話をすることになった。スケジュールもわざわざ早い時期に設定しなおしてくれて、来週には主治医、リハビリの各担当者も含めて話し合える場をいただけた。ありがたい。早く端座位、、、やりたいなぁ。

未分類 | 16:06:36 | トラックバック(0) | コメント(1)
そうは問屋が卸さない
やっぱりな。
僕がいけませんでした。
ごめんなさい。。。。

一昨日から始めた端座位、昨日書いたように見切りスタートしたわけです。きっと看護師さんに相談したらNGとなるでしょうから、相談しないで見切り発車しました。しかし、それを見てみないふりをしつづけるほど、ここは悪い病院ではありません。もっとしっかりしたルールのあるリハビリ中心型の病院なのです。

13時45分頃から15分間の端座位から今日の特訓がはじまりました。昨日はたまたま廊下を歩いている人がたまに「あれ?」と気がついたりしたのですが、今日は何人かの看護師さんが入室してきたときに、やっていたのです。これはタイミングなわけですが、それはしっかりと知られるわけで、このことは看護師長さんへとスピーディーに報告されました。よく統率のとれているチームです。端座位をはじめて5分後、看護師長さんが微笑みをたずさえた穏やか表情で現れました。しかし、少しだけその目には「こまったなぁ、ふぅ」と言ったような表情が見受けられました。

「こんにちはー」
「こんにちはー」
「すごいですねー」
「はい。すごいんです。こうすると、ほら、腕とか動かそうとしたり、さっきまでは足も少し動かしたりしたんですよ。ほら、清美、やってみて。あー、今はうまくいかないけど・・・」
「すごいですねー。あのー、西嶋さん。このベッドはエアマットで、端座位には向いていたいというか、すべりやすくてとても危険なのです。」
「あー、そうですよね。そう思って今日滑り止めを買ってきました。ほら、そこにあるのですが、ま、いいやってこのままやっていました。すみません。」
「そういうことだけでなくて。。。今、やっていること自体はとてもいい事だと思います。しかし、主治医の見解もありますし、現在のリハビリメニューの中に、まだ端座位は入っていないんです。お気持ちはよくわかりますので、先生と相談させていただいてから、ということにしてもらってもよろしいですか?」
「そーですよね。それでは、しばらくはダメですか?僕はこういうことをやるために、会社辞めちゃったんです。それで先日、石川県まで行って勉強もしてきまして、この端座位の技を覚えてきました。ぜひ続けたいので、検討お願いします。」
「お気持ちはよくわかりますので、なるべくスピーディーに回答させていただきますので、それまで少しだけお時間を下さい。」「はいわかりました。」

と会話しているうちに、目標の10分は過ぎ、トータル15分ほどの端座位レッスンとなった。この看護師長さんはとてもしっかりしている。まずは相手の気持ちに同意をしてから、次の会話にいくというルールをしっかりとやりきる。こういうちゃんとした人、いるんだよなぁ。えらいなぁ、、と感心しなら、ふと妻の顔に目をやると「またー、あなたはいつもそう。ちゃんと許可とんないとダメじゃない。いつも勝手なことばかりやるんだから。私の立場もちゃんと考えてよね!」と恐い顔で僕を見る。

「わかった。わかったよ。そんな目で見ないでよ。ほら、車椅子での特訓は、まだ大丈夫みたいだから、車椅子にのって特訓に行こう!今日はサンバイザーを買ってきたんだよ。これで、左目に直射日光は入らないですむからね。黒より赤いほうがかわいいと思って赤にしたんだ。・・・・・・・だ、、だから、そんな目で見ないでよ。わかったよ。ごめんなさい。ちゃんと病院サイドとちゃんと相談しながら進めるようにします。はい。わかりました。僕が悪かった。ごめん。」

以前にも書いたが、妻のこの<無言力>にはなかなかかなわない。すごい威力があるのだ。それで、いつも僕は反省することになる。しかし、確かにエアマットは危ないよな。何かあってからではおそいのだ。病院としては注意してあたりまえの事だ。

「すみせんでした!」ペコリ。
真剣に反省して、次に進むことにしたいと思いました。反省。。。

未分類 | 16:21:59 | トラックバック(0) | コメント(7)
上り階段式ハードスケジュール
かっこちゃんの1000本ノックを受け止める宮ぷーに感動し、昨日から僕たちも10本ノックくらいのトレーニングを始めた。身体をゆらしてぶらーんぶらーん(かっこちゃんは、オートバイとか言って、ベッドに座る宮ぷーを後ろから両足で挟んで、腕をつかんでブーンブーンとか言ってやっていたのですが、ぼくは大人なので、後ろから足ではさまないし、ブーンブーンとも言わないで、もう少しスマートにこっそりやっています)という運動や、ベッドでの端座位を10分行い、やっとそれから今までのメニューへと移ります。こっそりやっているとは言え、ベッドでの端座位はかなり目立ちます。廊下を歩きながらたまたま部屋の中を見る人は、みな一瞬「ぎょ!」っとして僕たちを見る。しかし、なんとなーく、見てみないフリをして通りすぎて行く。

よしよし。作戦成功です。これは、相談して許可など求めたら間違いなく断られるでしょう。許可をとられる方だって、いい迷惑です(笑)なので、当たり前のようにスタートした新メニューです。それから、車椅子にのり、外に出て気分を変えてさらに特訓です。

外でいつもの10分×2セットの首位置のキープ特訓をしていたところで、体当たり白雪姫の優さんご夫婦が訪ねてきてくれました。妻にやさしく声をかけて、挨拶をしてくれました。優さんご夫婦は筆談セットを用意してきて下さりました。首位置キープ特訓後、筆談トライアルとなりました。白雪姫プロジェクトを知ってから、気になっていて、ぜひやってみたかったので、これも優さんのやり方を説明付きで見れたので、大変参考になりました。その後、痰をとるための背中からのアプローチ、痛くないように安全に叩く方法、微振動を与えながら、肺の中に絡み付いている痰をはがす方法なども、教えてもらいました。本当に愛にあふれた素敵なご夫婦です。

昨日、今日で気がついたのですが、背を立たせて座ったり、手に微振動を加えたりしていたら、どうも手の動きも、以前より出て来たように感じました。今日は、今まで全く動かないと思っていた、右手にしっかりとした「力」を感じました。すぐに、使えるレベルではありませんが、こうやって、少しづつ自分の力を取り戻していくのでしょう。それにしても、このタイミングで優さんが来てくれました。本当にちょっとした事ですが、この微かな力をしっかりと感じていただき、その可能性を妻にも知らせてもらえました。とにかく、本当に思いがけないことが少しづつ積み上がって来ていて、それが次のステップへと確実に続いていると感じます。

先日かっこちゃんと会って、白雪姫プロジェクトは昨年の4月から始まったとききました。そのちょうど1年のときに、僕はこのプロジェクトを知り、「座る」ことの重要性を知り、それから1ヶ月で実際に妻をベッドで端座位の体制をとらせることが出来るようになりました。妻も「なんかいつもと勝手が違うぞ?」と思っていることでしょう。実際にやるリハビリプログラムが僕とあうたびに増えていくのです(笑)

今は、胃瘻から夕ご飯をたべながら、先日のフィギュアスケートのエキシビションを見ています。少し目がトローンとなっています。日に日にやることが増えていくので、疲れているのでしょう。今日はこのくらいで許してあげることにしましょう。もうすぐ6時になります。宮ぷーは、今からが特訓の時間です。耳元でかっこちゃんのあの天使(悪魔?)のような甘い囁きに導かれ、今日も、数々のメニューを平気な顔をして乗り越えるのでしょう。すごい。

そう言えば優さんは筆談用の画用紙とマジックを置いていってくれました。明日からは君にも筆談レッスンがメニューに加わります。「清美やわいや」・・・僕の師匠がかっこちゃんなもので。

未分類 | 17:40:46 | トラックバック(0) | コメント(0)
きかん坊とハーレム
白雪姫プロジェクトに出会ったのは3月24日のことでした。かっこちゃんの講演会での「どんな状態でも人間は必ず回復する力をもっている」「奇跡は奇跡じゃない」という宮ぷーのこの4年を背景とした、骨太方針メッセージに感動し、その夜、かっこちゃんにメールをし、それがきっかけとなり、28日には白雪姫プ ロジェクトメンバーとして、このブログを立ち上げました。ブログスタートをきっかけにして「妻が倒れてからの3年間」を振返ってみたら、気がつくと3週間が過ぎていました。そして4月19日、20日と今度は、かっこちゃんと宮ぷーに会いに行ってきました。白雪姫プロジェクトとの出会からのこの1ヶ月は、予想もしなかったことの連続で、僕の人生の中でもかなり笑えるスケジュールです(爆)

今回、宮ぷーとあえた事は、僕にとってとても大きな意味がありました。きっとそれを知っていて、かっこちゃんは僕を宮ぷーに会わせてくれたのでしょう。19日の17時過ぎに病院のロビーで待ち合わせをして、さっそく宮ぷーの特訓会場へ向かいました。一般的には病室といいますが、ぼくには特訓するための特別室でした。17:30に胃瘻から食事。18時には、まこさん、その少し後に、ひろこさんがやってきました。はい、そうです。食後のお休みなんてありません。そんな時間をとっていたら、すぐ20時がやってきてしまうからです。今、宮ぷーがやっているスパルタ特訓は、かっこちゃん一人で出来るものから、二人いないと出来ないタイプのトレーニングに進化しているわけです。そこで、それをサポートしてくれる美女が、日替わりでやってきます。

信じられますか?しかし、事実なんです!
僕は実際にそのスパルタ&ハーレムに潜入し、今そのリポートを書いているわけです。
しかし、ハーレムといっても、甘い生活のメロメロな日々ではありません。それどころか、戸塚ヨットスクール並みのスパルタ方針で、形態としてはハーレムです。

僕にはよくわかります。宮ぷーは、男です。だから僕にはその気持ちがよくわかります。美女3人がよってたかって「がんばれ宮ぷー!」とか言いながら、すごい明るい笑い声が響く中で、かっこちゃんは顔をそばによせて耳元で「もっとがんばれ宮ぷー」とささやくのです。これでは男は後にひけません。男はエーカッコシイで、おだてられたり、のせられたりするのが大好きです。気がつくと、立位5分間、足のペダルこぎ100回、次には手で100回、口のパタカラ50回、、、まだまだ続きますが、怒濤のスパルタレッスンが19時45分まで続きます。それから15分かけて、片付けをして、レッツチャット、テレビ、ナースコール、の調整をして20時に病院の退館時間となります。

当たり前のようにやり遂げた宮ぷーは、へっちゃらな顔をしています。しかし僕は知っています。『まいったなぁー、あれ、後に引けないものなぁ。ありがたいけど、本当はちょっとキツいんだよなぁ、でも、かっこちゃんはいつもおかまい無しだ。ちょっとサボると「宮ぷー、ダメッ! もっとがんばる!」と言ってオデコを“ペンッ”といい音で叩く。ぜんぜん痛くないけど、男のプライドとしては負けられないんだ!」そんな声が僕には聞こえてきます。僕は内心「がんばれ宮ぷー!」と美女たちに気づかれないように内緒でお祈りをします。気づかれてこちらに矛先がくるとまずい。なんせ、スパルタなんですから(笑)

そんな事も含めて、僕はとても多くの事をたった2days5.5時間で経験してきた。簡単にリスト化すると、白雪姫プロジェクトのホームページで見た、一人で車椅子への移動をさせる方法や、ベッドでの端座位、口腔ケア、電動ハブラシ、尖足からのリハビリ方法、良くなってからの尖足予防装具、直径55cmボール2つを使った足のリハビリ方法、低周波治療器を使用して刺激を与える方法、目の上下方向でのリハビリ方法と、それを利用したYes,No、車椅子を作る場合の座位保持装置枠のこと、パタカラの効果、練習時に鏡を使用すること、うつ伏せの重要性、・・・etc.

これは、本や、動画で見ただけでは無理で、やはり実践をふくめて経験しないとわからないなぁと思いました。まこさんや、ひろこさんが、実験台になってくれて、ベッドでの端座位へ起こすやり方や、ベッドから車椅子への移動なども体験させていただきました。本当にありがたいです。妻をいきなりやってみるわけにもいかず、しかし、経験するだけで自信に繋がります。回数は必要でしょうが、簡単なんです。ですから、みんなが出来る事なのです!「奇跡は奇跡じゃない」に通じることです。この一歩がとても大切なのだなぁと思いました。

まこさんも、ひろこさんも、すごいなぁと思うのは、<思った事>を<実行>することです。普通は思ってもやらない事がとてもたくさんあります。<実行>することの難しさは、表面で見るだけでなく、そのうしろには、家族の理解なども含めて、そう簡単なことではありません。その“気持”ちと“力”を集めてしまう、かっこちゃんはオバケですが、そんなことも体験できたことは、僕にとってとても大きな経験となりました。

僕の中にもちょっと困った「きかん坊」が住んでいます。思って気がつくと行動していて、何か僕を突き動かすやっかいなものを感じます。たまに、自分でうんざりしたり、めんどうだなと感じるのですが、自分の中にあるようなのでしょうがないのです。しかし、今回はとても良い方向にどんどん展開していきました。

僕の中に“も”と書きました。「“も” 」です。これは会ってすぐ、直感的に分かる事なのですが、かっこちゃんの中にはかなり“めんどう”な「きかん坊」が住んでいるようです。“あれ”は、思ったらやらないと気が済みません。家族はもちろん、実はかっこちゃん本人もずいぶん大変なはずです。しかし、本人も自分の中に住んでいる「きかん坊」を、なかなか大人しく押さえ込めません。それは、僕にもよくわかります。

僕はかっこちゃんと初めてあって会話したのですが、話をした途端にほっとしました。これは僕が勝手に思っているだけですが、「同類」なんですね。けっこう、やっかなんです(笑)自分の中のそれを制御しながらやって行くのは、それなりに大変です。本当に大変なのです、、、よくわかります(笑)

でも、きっと家族も大変だったりするだろうなぁ、、、、
かっこちゃんと会ってしまった僕の妻も、今後は大変な訓練が待ち構えている(笑)
しかし、しかし、僕は男としてまず言いたい。「がんばれ宮ぷー!!」


未分類 | 20:05:31 | トラックバック(0) | コメント(2)
“習性” か? “変態”か?


家でテレビを見ていたら、途中からだったけど、なんと、一昨日母が消去したフィギュアスケートのエキシビションの再放送をやっているのを見つけた!これはすごい!と思い、途中からだったけどすぐ録画した。それをそのまま、見てしまって、その後、コロンボを見て、その後、スケートの番組を45分程度に部分消去して、DVDしたので、今度はSMAPに頼らなくても大丈夫になった。

そう言えば写真を変更しました。これは最初に使った写真です。特別な意味はありませんが、とても気に入っていました。今年の桜はずいぶんと妻と一緒に楽しめたのですが、青空に桜、そこにジェット機。これはかっこいい!!と、iPhoneのカメラで、このタイミングまで待ってワンショット!アングルがちょっと下手くそだけど、まあいい。ちょうど、このブログを立ち上げた頃にとった写真だったから、これをプロフィール写真にしていましたが、残念なことにプロフィールの写真は拡大できないので、このジェット機がちゃんとわからなくて残念だと思っていまいした(笑)なので、このプロフィール写真を変えたこの機会に載せてみました。

コロコロ話は変わります。僕の大好きなMaochicaというピアノ二人のユニットがおります。この二人の音楽的キャラクターがとても面白くて、「対(TSUI)と対(TAI)」というタイトルでライナーを書きましたが、今でもこのアルバムは気に入っていてよく聴いています。彼らのベスト盤の制作に参加したとき、DVDもつけましょうと企画して、2009年の10月に本栖湖へ撮影に行きました。この時妻を料理係としてつれていったのですが、ロッヂを借りてベッドルームにアーティストチーム、床に僕と妻が寝たけど、予想以上に寒くて、背中から体温がすごい勢いで吸い取られて行って、ヤバイって思ったことを思い出します。寒くてガタガタ震えながらあまり眠れなかったその翌日、とても天気がよくて妻と散歩したときに撮った写真が、今使っている新しいプロフィール写真です。この影が、妻が元気だったときに撮影した最後の2ショットとなりました。これは、拡大する必要はないので、ちょうどいいです(笑)

今日、病院にMacbook Airを忘れて来ました。処置の時間がいつもより少し早く来たので、慌てて出て来てしまって忘れたのです。これは、今日はもう書かなくていいよということだなと思い、テレビを見ながら焼酎を飲んでしましたが、どうも落ち着きません。これは、20日間も毎日書き続けてきた“習性”なのでしょう。なので、なんとなくデスクトップのPCに向かってみたら、こんな文章になりました。だからと言って妻をテーマにブログを毎日、それも3週間も書いているのは、ある意味 “変態”だと思うので、明日からは少し控えます。

未分類 | 00:46:29 | トラックバック(0) | コメント(0)
にんじん大作戦
毎日スタートは順調だ。ちょっと、動きが小さくなったように思うけど、しっかり 「い」 と口を横にして次に 「く」 と口を突き出す。はい、もう一度! 「い」「く」。

「はい良く出来ました。今日は、車椅子にのる前に、話し合いたいことがある。昨日思ったんだけど、もっと真剣にリハビリに取り組んでもらいたいんだ。もちろん、一生懸命やっていたことは知っているよ。でも、昨日のアプローチはダメだ。なかなか思うように行かないから、もうやりたくない、って思っているのかもしれない。それもわかる。でもね、僕たちのルールを覚えているだろう? これは僕も、息子たちも、そして清美もあきらめないって事なんだぜ。」・・・と、一発かましてやった。

昨日の帰りに色々と考えて、今日も病院へ来るまでの車の中で、作戦を考えたのだが、まずはちゃんと目をみて真剣に会話することだと思った。

車椅子に乗って、いつもの公園へ行き、いつもの木陰で特訓をする。しかし、やっぱり目を閉じている。ふーむ。そう来たか。これは、反抗の印だな。ここは、ひとつ外してから次に行ったほうがいい。「そよ風が気持ちいいね、ハワイみたいだ。目をとじていたい気持ちもよくわかる。今日はしばらく、ホ・オポノポノの朗読をしてから、特訓しよう。そうして、特訓が終わったら、昨日のSMAPの続きを見ようね。あれ、まだ一時間半も残ってるんだよ。」・・・と、やさしいふりをしてホ・オポノポノの本を読み始めた。たまたま、読んでいたパートが、出会った人などの相手を思い浮かべたクリーニングだけではなく、自分の中にわき上がって来た気持ちも、ちゃんとクリーニングしましょう。・・・みたいなコーナーだった。これはちょうど、内容がいいな、、と思いながら、朗読する。たまに、妻をチラッと見ながら朗読をつづける。よしっ、しっかりと目をあけて話を聞いている。なんか、今日はいい感じだ!「よし、今日の朗読はここまでにしよう。これから、口の中のマッサージと、顔のマッサージをしてから、いつもの10分ワンセットの首の確保を2セットだ。いいね!それからSMAPだぜ!」

今日は、10分2セット、背中を立たせて座らせて、いつものちょっと上向きの角度に首を準備させて、僕はそっと手を離す。まったく僕の手の支えを必要とせずに、10分間、首をキープしている。その間、僕はしゃべりっぱなしだ。ここのところ、3年間の振返りをやったので、過去の話題は豊富である。あの時、こうだったんだよ。この時はこんな感じだった。でも今、君は自分で座って、僕は手を離しても自分の首をキープしている。すごいことだぜ。あーだ、こーだ、なんやら、かんやら。。。と、しゃべりっぱなしだ。僕はいつから、こんなにおしゃべりな奴になったんだろう?相手が少しでも、頷いたり、相づちをうったり、間に言葉を挟んでくれたらどれだけ助かるだろうと思うのだけど。

こうやって、10分2セットの特訓は終了し、ベッドにもどり、約束のSMAPの続きを見ている。そうして、僕はまた、妻の横顔も見学するだけの1時間が始まった。これが、一番つまらない。今日は、うまく行けば、この時間がやってくることが分かっていたので、MacBookを持って来ておいた。だから、彼女はSMAP、僕は日記である。

さぁ、次の“にんじん”は何にしようか? 先日のフィギュアスケートのエキシビションと決めていたのに、今朝、ハードディスクレコーダーを確認したら、消えていた。がーーーん。もうフィギュアスケートは年末までないよ。。。。母がもう見終わったと思って消していたらしい・・・(涙)、片付けもなにも、済んだらもとにもどす。ちらかっていると怒られる。しかし、ハードディスクの要領はまだ20時間くらいあったのに、そんなに消去しなくてもいいのに。。。しかし、もう消えてしまったのだ。

・・・っと、ここまで書いたら、オムツ交換の時間となった。さ、片付けよう。妻に、急に終了するのは気分が悪いだろうが、これは、集団生活をしているためのけじめだと思って、気持ちを切り替えるように伝えた。これを、僕が気にしていると、前後の時間をたっぷりとらないと、映像を見せる事が出来なくなる。SMAPのために、処置の時間をずらしてもらうわけにはいかない。

これで、明日の“にんじん”もSMAPの続きで大丈夫だ。その次のことは、また追い追い考えよう。SMAPが思いのほか好きらしいことがわかった。彼らはたくさんテレビに出ているから、他にいいアイデアがないときにはまた彼らに “にんじん” 依頼することにしよう。

未分類 | 16:14:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
ベッドサイドからの景色(19)

「ベッドサイドからの景色」と題して書き始めた、この3年の振返りはこれでおしまいです。
今、3冊の手帳を見ながらそう思いました。細かいことはまだまだたくさんありますが、大きく振返るとこれでいいと思いました。何日書き続けたのかな?と数えてみたら、ちょうど今日で20日間でした。振返りは1週間くらいで終わると思っていましたが、約3週間ここまでの3年を毎日考えていました。それで一つ気がついたのですが、全てが何かに向かっているように思いました。最終的には、僕も妻もこの世を去るわけですが、それまでにやるべき事を、一つ一つ経験しているように感じました。

この「ベッドサイドからの景色」の最初に、書きたかったのですが、うまく書ききれなかったことがあります。下記は、今年の2月13日、Facebookに書いたいたものです。

「既に起こった未来」~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

2010年の今日は小雪がちらつくとても寒い日だった。
僕は朝から気功教室で1時間の呼吸鍛錬をやっていた。
一種の瞑想状態にいるわけだけど、なぜかこの日は鳥の鳴き声が気になった。たぶんあれは、ヒヨ鳥じゃないかと思う、、、

静功(呼吸鍛錬)が終わってからも気になっていて、その鳴き声の回数を思い出してみた。もちろん数えていたわけではないのだけど、リズムで覚えていた。キーキーキーキーキーキー 休符 キーキー 休符 キー それは、8分音符と4分休符のリズミカルな鳴き声だった。

ちょうどあの頃、易経に興味をもちはじめ、気功の先生のところでの勉強会にも参加するようになっていた。先生に「呼吸のときにどうしても、鳥の声が気になってしまいました。この鳥の鳴き声で、易経を占うことはできますか?6回、2回、1回です。」と尋ねてみた。

「西嶋さん。それは澤水困(たくすいこん)という卦の代一爻(初六)という意味です。この卦は易経64卦の中でも、4大難卦といって、大変良くない卦です。西嶋さん。今日はきっとびっくりするくらいの悪い事がおこります。それが何かはわかりませんが、交通事故なども含めて、とにかく気をつけてください。」・・・と言われた。いい気持ちではなかったけど、自分で占ってしまったのだから仕方がない。

それから2時間後、息子から電話がかかってきた。「おかあさんが、倒れた。立川の災害医療センターに担ぎ込まれたからすぐ向かって。」まさか、これだったのか?想像以上の最悪なことだ。病院へ間、僕はいったい何を考えていたのか?記憶がない。まだ、息子たちも到着していなかった。ICUのベッドの上で、口や鼻から管を差し込まれた妻が目の前に、物のように横たわっていた。「変わり果てた」・・・という言葉が頭の中をループしていた。

そんな時、医者から人工呼吸器をとりつけるかどうか?の決断を今日してほしいといわれる。何故こんな状態で、そんなこと聞くのかな?と思ったら、外せなくなる可能性があるからだそうだ。植物人間となって人工呼吸器を外すと死亡する場合、外すことは殺人罪となるのだ。幸い、僕らは以前に話し合っていた。あれは、エリザベス・キューブラー・ロスの本を読んだときだった。もしも、どちらか植物人間になるようなことがあったら、無理な延命は避け、先にあっちに行って待っていようと話していた。もちろん、そんなことは有り得ないと思っていたけど。

僕は人工呼吸器のとりつけはしないという決断をした。

澤水困の初六には、こう書かれている。臀株木(しり、しゅぼく)に困(くる)しむ。幽谷に入りて、三歳まで観ず。・・・これは、切り株に座ることすらできないくらいに苦しい状態で、暗闇に落ちて3年は人の顔も光も見えない、、という意味である。
妻は、まさに、そのままの状態で、暗闇に落ちていった。

しかし面白いことに、澤水困の卦全体については次のようにも書かれている。困(こん)は亨る。貞(ただ)し、大人は吉にして咎なし。言うことあるも信ぜられず。・・・これは、困窮に陥っても忍耐をかさねれば、必ず通り抜けることができると言うのだ。

忍耐については、想像を絶する忍耐をしてきたことだろう。全身麻痺により、四肢は動かず、多く語るどころか声すら失った。
しかしやり抜いた。
ここのところ、妻の状態が良好だ。困は亨る、、、通ったのだ。

まばたきや口の動き、首のかすかな動きなどで、返事を返そうとする。この日が必ず来ると信じていた。そして、妻のモチベーションが上がって来たときには、しっかり妻に寄り添いたいと思っていた。しかし今度は僕が病気になり、元のハードな仕事ができなくなった。これも一つのサインだとうけとめて、24年勤めた会社を今月15日で退社することになった。こうして僕は、妻といる時間をもらえることになった。変化の時がやってきたのだ。

長男は昨年結婚、子供が生まれ、僕らをじーさん、ばーさんにしてくれた。次男も就職が決まり働きはじめた。困難の時期を3年と考えてやり抜く目標として生きてきた。一番最悪な時期は「亨る」、通り抜けることが出来たのだろう。

目に見えぬ兆しを感じとること、僕にはそれが出来なかった。今度こそ見過ごすわけにはいかない、回復の兆しがあるはずだ。その背中を押すことを、怠ってはならない。「極まれば変ず」・・・まずは、変じてみよう。ここから「変ずれば通ず」へ向かう一歩を家族全員で踏み出してみるのだ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
※ 「横浜」をつくった男―易聖・高島嘉右衛門の生涯 (光文社文庫)
妻が倒れた日、僕が鳥の鳴き声がとても気になった理由があります。それは、この本を読んだあとだったからです。横浜に「高島町」という地名がありますが、これは、高島嘉右衛門の名前が由来です。易とは別にしても大変面白い本です。


<ベッドサイドからの景色>
僕にとって今回の振返りの意味は、「行く方角は、今、歩いている道でいい」と確認するためにあったように思います。タイトルを付けスタートしてみましたが、計画的に書きはじめた文章ではありません。2010年の手帳を眺めながら、あぁ、こんなことがあったな・・・あんなことあったな・・・と、それを思い出しては、行き当たりばったりで毎日書いてはアップしてみました。しかし、それを書きながら、自分で読み返しながら思うのですが、新しい出会いを重ねながら、色々な方々に支えていただきながら、行くべき方向へちゃんと向かっていっているようだと確認できたように思います。今後は、日々のわずかな変化や何気ない思いを書いていこうと思います。

未分類 | 10:06:58 | トラックバック(0) | コメント(0)
SMAP恐るべし
今日も、僕の顔を見るなり「い」「く」と唇を横にしてから、突き出した。最近気になるのは、その動きが小さくなってきている事だ。なんか、ラクしているのか?あるいは、うまく出来ないのか?よくわからない。車椅子に乗ると、妻は目的を果たしたのでもう口を動かしてくれない。どうも、これは効率的というか、なんというか・・・。

とにかく、車椅子でいつもの公園へ行って特訓だ。今日は特訓の前に、溝呂木梨穂さんの詩集「私の私らしさを見つけたよ」の朗読をした。この詩集は素晴らしい。言葉に出来ない気持ちを、文章全体を使って感じさせるという詩となっていて、素晴らしいのだ。これはきっと妻にも響くだろうと朗読した。これから、毎日少しづつ朗読していこうと思う。

朗読が終わったらいつもの「特訓」だ。気がつけばもう3週間やっている。背もたれから背中を離し、首をある角度にして、手を離す。かなり安定して、首を支えられるようになってきた。それはいいのだが、昨日も今日も特訓しているのに、目は閉じっぱなしである。意識を集中するために、目を閉じているのかな?それとも気合いが足りないのかな?

今日は言語リハビリのスケジュールが変更になっていたので、1時間弱でベッドに戻り、リハビリに突入した。口の中をマッサージしたあと、顔の筋肉のストレッチをしているのに、また目を閉じて眠ってしまう。「こらこら。意識をこっちにもってきて!意識しなくてはリハビリの意味がないぞ!」と声をかけると、うっすら目を上げるが、トローンとしている。こりゃぁ、気合いが入っとらんな。けしからん。しかし、いきなり怒ってもだめだ。ちゃんと気合いが足りないかどうかを見極めないといけない。

昨日、オンエアーしていたSMAPの特番を録画して、DVDにして持って来ていたので、言語リハビリのあとに、「清美、面白いの持って来たぞ!見るかい?」と声をかけながら、ポータブルDVDを用意する。イアホンをしながら、「さー、なーんだ。」と声をかけながら、スタートする。番組がはじまった!その途端、妻の目はパッチリと開いて見入っている。

1時間しっかり見ていたが、処置の時間となり今日はおしまい。
「はい、残りはまた明日みよーね。」まだ残り1時間半ある。
DVDを消したら、もう目を閉じてる。

「今度はリハビリしっかりやろうね!積極性が大切なんだよ。明日、特訓がんばろうね!それから、SMAPの続きみようね。」

餌を目の前に吊るしてみた(笑)
なんだよ。やっぱり、気合いが足りないんじゃん。
ってか、毎日きてる旦那より、やっぱキムタクなんだな。

未分類 | 19:10:04 | トラックバック(0) | コメント(0)
ベッドサイドからの景色(18)
キロたん。

「僕たちのルール」

現在の病院に来てから、僕は言語聴覚のリハビリを見学することがとても好きでした。妻は徐々に「あいうえお」の練習など、少しづつ口を動かすことが出来るようになって行きました。僕は「すごいすごい、もっともっとどんどん色々な事が出来るようになるよ」と毎日声をかけ続けました。しかし2011年のある時期から妻のリハビリに積極性を感じなくなりました。なかなかうまく行かないと感じたのか?どこか諦めてしまったように動かなくなってしまいました。この時、声をかけ続けることの大切さ、必要性を強く感じるようになりました。僕は行けるときは毎日病院によってから出社していたので、家を出て病院へ行ってから、会社に到着するまでに約4時間ほど必要でした。それでも、病院の滞在時間が短くても、とにかく声をかけ続けるとは大切なことだと感じていました。
過去の振返りをしていたので、Facebookを見直していました。その2011-2-27 にこんなことを書いていました。

友人がWebで見つけて、購入しプレゼントしてくれた。
15年ほど前だと思うのだが、こんなインコと暮らしていた。
キロという名前を息子たちがつけた。
妻とたいへん仲がよく、いつもこのような姿が部屋にあった。
長い髪の毛をアップしくるりと回してとめて、アゴから首にかけてのラインやら、
バストのぺっちゃんこなところまで、よく似ている。

キロが止り木から落ちたとき、すぐに気がついた妻は
キロの細かく震える体を手の平で暖めていた。
しだいにキロの目がうつろになっていった。
もうこのままゆっくりと最期を迎えるのだろうと思った。
それから30分ほど、僕はただそんな妻とキロを気にしながら、黙ってPCに向かっていた。
そしてその瞬間がやってきた。
力強く「バタバタバタッ!」とキロは羽ばたいた。
そんな力のこっているはずがないのに、キロは最期の力を振り絞り羽ばたいた。
その瞬間「あ、今逝った。」と直感的に感じた僕は、妻の手の中を覗き込んだ。
キロの体から、魂が飛び立っていったのだ。
妻に最期のはばたきで、挨拶をしてくれたのだろう。
羽ばたく前までは、弱々しくても生命のある体だった。
しかし、魂が飛び立ったあと、まさしく抜け殻と化していたことをよく覚えている。
生命がなくなり、抜け殻はただの物体となった。
僕はそう感じた。

僕たちは、先日2月2日で銀婚式をむかえた。
人生の半分をともに歩いてきたわけだ。
今、妻はベッドの上ですごしている。
一年前に倒れ、言葉もかわせず、首も手も腕も、足も
どこも動かすことができない。
しかし口は少し動かせるようになった。
右目は上手にまばたきもできる。
しっかりとした生命力を感じる。
生きるとは何かを考える。

意思があることはわかっている。
表現できないことはつらいことだろう。

経験をする。
表現をする。
まちがったりもする。
反省する。
表現はシンプルになる。

僕たちのルールは、あきらめないことだ。
今回は、そんなふうに生きてみる。


たぶん、この頃から僕は歌をつくろうと思っていたようです。これまでも、様々な方の力をかりながら、歌で気持ちを伝えてきました。今回も歌を作ろうと思いました。妻の51歳の誕生日、8月16日までに音源を作って聴いてもらいたいと思いました。「ベッドサイド」は、もう一度目をあけてほしい、そして声を聞きたいという「祈り」の歌でした。「夢の雫」は、妻の意識の回復にともない訪れるであろう恐怖と絶望に備え、「君は一人ではない、僕たちは一緒に歩いていく」という「宣言」の歌でした。今回は「あきらめないこと」をテーマに歌を作りたいと思いました。

妻はたぶん、やろうと思って頑張っても頑張っても、なにも変化がない。もう無理なのではないか?という不安を抱えていて、全てを投げ出したい、そんな気持ちなのではないか?と心配になりました。これを考えると、とても僕の心も不安定になりました。なんというか、言葉にならない不安がいつも心の奥底にあるといった感覚です。とにかく早く「あきらめない約束」を取り付けなくてはならない。はやく、歌をつくろうと思いました。

それから僕の頭の中は妻に伝えたいメッセージを歌詞にしながら、同時にメロディーを作り始めていました。ある日、お風呂に入っているときに、鼻歌で歌詞とメロディーが同時に出て来ました。悪くない、まぁまぁの出来でした。一週間後も忘れずに覚えていれるのなら、このメロディーと歌詞を採用しようと思いました。なので、メモにも残さず、メロディーもスケッチしませんでした。分かりやすい言葉とメロディーでしたので、これはしばらく頭の中に残っていましたので、これを採用することにしました。頭の中で一通りのメロディーをイメージしてから、最後にギターを手にして、コードを確かめながら、歌詞もまとめました。


「僕たちのルール」

僕たちのルール  それは単純さ
あきらめない  やり続ける
たとえば涙で  明日が滲んでも
すぐ隣に僕はいるよ

いつも何時の間にか君を
考えているんだよ
夢の中の君はいつも
微笑んでいるんだよ

さあ  声を聴かせて
そう  もう少しさ

僕たちのルール  それは単純さ
あきらめない  やり続ける
たとえば涙で  明日が滲んでも
すぐ隣に僕はいるよ

僕たちのルール  それは単純さ
あきらめない  やり続ける
石ころだらけで  歩きづらいけれど
ほら隣に僕はいるよ

「たぶん」じゃなくて「確か」に
君の目が  僕を睨んだ
思い出したよ  このカンジ
きっと僕に  文句言ってる

さあ  声を聴かせて!
そう  もう少しさ!

僕たちのルール  それは単純さ
あきらめない  やり続ける
石ころだらけで  歩きづらいけれど
ほら隣に僕はいるよ


2011年6月13日にこの歌詞とデモテープを次男にメールをしています。今回は次男にこの曲を歌ってもらおうと思いました。相変わらず、僕が作る歌のターゲットは一人でしたので、ターゲットに一番効果がある方法を考えたわけです。ちょっとズルい手ですが次男に歌ってもらうことにしました。「絶対にあきらめない」と今度は妻が宣言する番なのです。そういう気持ちになってもらうために、彼の声は有効だろう。もう6年以上前、家族でカラオケに行った時に、次男の声がなかなかよかったので、妻はもっと歌ってとリクエストしていました。もう彼の声もずいぶんと大人の声になりましたが、それでもきっと妻の心に響くはずです。

若者が歌うなら、それなりのサウンドにしてみたら?という塩入さんからの提案もいただき、塩入さんにアレンジをお願いして、8月3日にカラオケが出来上がりました。誕生日に間に合わせたかったので、これでギリギリ間に合うと思っていたのですが、当時、僕のスケジュールと、息子のスケジュールがまったく合わなくて、歌入れが出来たのが9月28日、音源の完成が10月2日となりました。誕生日には間に合いませんでしたが、出来上がってからすぐに妻に聴かせました。聴き始めてすぐ「あれ?」という顔をしているように感じました。きっと息子の声は特別だったはずです。僕はもちろん、家族全員あきらめない。もちろん君も絶対にあきらめない。それが、僕たちのルールだと、心に響いてくれることを願いながら妻に聴いてもらいました。


先月、白雪姫プロジェクトと出会い、背中を直角に座らせる事、頭の重さを脊髄へ感じさせることの大切さを知り、それから毎日、特訓をはじめています。しかし、そう簡単に先に進みません。一昨日、松尾さんがレッツ・チャットを持ってきて下さいましたが、そう簡単に使えません。まずは、どうやってスイッチを押せるのか?を見つけて、そこでスイッチを押す訓練をして、制御できるようになってから、やっと使えるのです。しかし、レッツ・チャットの実物を見ることが出来たことはとても刺激になったはずです。昨日は特訓の後「フィギュアスケートの女子フリー」を1時間に編集してものをDVDにしてみせましたが、これは集中して見ていました。見終わってから帰りぎわに「絶対にあきらめない、これ僕たちのルールだって、わかっているよね?」と聞いてみた。もう疲れちゃって口は動かなかったけど「パチリ」と瞬きをひとつ返してくれました。

未分類 | 12:22:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
ベッドサイドからの景色(17)
これまで2010年の手帳のメモを見ながら、なるべく時系列で書いてきましたが、今日でこの手帳のメモからの振返りは終わりになります。妻が倒れてからのこの1年は、次から次へと色々な事がありました。この障害年金申請への道のりも、ご家族は辛い思いをすることがあるのではないかと思います。

<風の行方>

2010年の4月、市役所の障害福祉課へ相談へ行きました。まず実情を伝え、どんな手続きをとるといいか?から始まりました。福祉に携わるセクションだけあって、とても丁寧な対応でした。様々な悩みを抱えた人たちが、毎日相談にくるのですから、まずは相手の気持ちをちゃんと聞きながら、「そうですか、それはお若いのに、大変ですね。」などと、相づちを打ちながら相談に乗ってくれました。これは大変な努力だし、ありがたい対応だと感じました。そこで障害者認定についての手続きをして、病院に職員が面接にくるということになりました。そこで、障害レベルを確定する仕組みでした。せっかく市役所まで来たので、僕は「障害年金について教えてもらいたいのですが」と続けて相談をしました。障害福祉課の方は「年金については、保健年金課になりますので、こちらへどうぞ・・・」と、同じフロアーの別セクションへ案内してくれました。

「障害年金の申請について、どのように進めればよいか伺いたいのでお願いします。」
「奥様は初診から1年6ヶ月以上たっていますか?」
「いいえ、今年の2月に倒れたので、まだ2ヶ月です。」
「では、申請できません。」
「いや、あの、、妻は脳幹出血ということで全身麻痺で四肢はまったく動かない状態で・・・」
「脳出血でも回復する可能性があるわけですから、1年半経ってからの申請となります。」
「あの、そういうタイプの脳溢血ではなくて、脳幹出血というのは、お医者さんからも・・・」
「すみません。規定ですので例外はありません。」
「・・・・・」

というような事がありました。保健年金課の女性は、担当として、ルール通りの対応をしただけなのでしょう。この頃の僕は心に余裕がない時期でしたので、がっかりしながらも「これ以上会話してもしょうがないのだな」と力を落として市役所を後にした。同じ事を伝えるにも、伝え方があるだろう。なんというかセンスがない。こういう対応をしている方は、ルール通りやっているのだから問題ない、自分はしっかりと対応していて正しい人間だ・・・と思っている可能性がある。相談にくる人は、心に悩みを抱えていて、疲れた身体に鞭打ちながら相談にくるのだ。相談者は相手されず、投げ捨てられたタバコの吸い殻にでもなったような気持ちになる。問題は、人を傷つけていることに気づいてさえいない事です。出来れば、これについての対応は保健年金課として対応のあり方を考えた方がいいでしょう。しかし、これも現実であるので、申請しても無駄だということはわかったので時期を待つことにしました。

最初の病院の担当医からは、「ショックが強いでしょうから、はっきりした%はお伝えしませんが、西嶋さんの奥さんの脳幹の橋(きょう)部分は50%以上の脳が吹き飛んでしまっています。ここは再生することはありません。なので全身麻痺は治る事ははいと考えていただいた方がよいと思います。」と宣告され、一生四肢は動かないと言われているのだが、障害年金の概念から言うと、手足が切断されている場合や、人口肛門手術を受けた場合、透析を受けて3ヶ月以上経過した場合はすぐ認定されるが、手も足もちゃんとあるのだから、脳幹出血は五体満足の患者というカテゴリーとなるので、症状が固定しないと審査には通らないですよと言われる。また症状固定については、最低でも半年以上時間が経過しないと、お医者さんは診断書を書かないのが常識となっている。だから一年半後までは申請出来ませんよ、と言われます。どうしても、どこか不自然に感じました。

当時の厚生労働大臣のホームページにご意見の受付というのがあったので、そこからメールしてみました。当時の思いを綿々と書き綴り、この障害年金の申請基準の矛盾と、転院しなくてはならないルールについて、患者には様々なケースがある、などを本気で書いているので、相手にとってはけっこう面倒臭いメールになっていたわけですが、翌日、定型文での返信があり、つい笑ってしまった。

「この度はメールにてご意見を頂戴し、誠にありがとうございます。
****(当時の大臣名)の世直しの参考にさせて頂きます。
今後ともご指導いただければ幸いです。」

なんといいますか、当時は切羽詰まっていて、真剣に思いを込めて文章を綿々と書いたのですが、、一番困っている時に、やはりここでもポイと捨てられた気持ちになったものです。もちろん、この大臣もいちいち、メールにちゃんと対応する時間などないのでしょう。きっとスタッフがさっと読んで、大臣には届いていないのだろうと思いました。対応するには、経費もかかりますし、問題は山積みですから、それもわかります。それにしても、すべて同一文章で対応するのであれば、せめて機械的システムでの自動返信にすればいいのになと思いました。自動返信なら「壁」は感じますが、「ポイ」とは感じないだろうにと。

夏が過ぎ、倒れてから半年経った頃、お医者さんも固定症状であると診断書を書いてもらえる時期となった。僕の本心は、実際は固定ではなくて、ここから回復していくと信じているのですが、この制度を利用させてもらうためには、固定したと医者に断言してもらわなくてはならない。まったく、僕の中でも矛盾している作業だった。なので、あまり頭でものを考えたくなかった。それでまた時間が過ぎていった。11月に4回目5つ目の病院に転院し、さて、そろそろ申請してみようか、どうしようか?とソーシャルワーカーに相談してみると、診断書は書けるけど、申請が通るかどうかはわからないということでした。

1年半待つしかないのかな? これは誰に相談しても回答が出ないことなので、気功をして、気持ちを落ち着かせてから易経で占ってみた。2010年の手帳の11月の欄に「山地剥」と書いてある。「剥は、往くところあるに利ろしからず」という本文も手帳に記入してあります。これは時期が来るまで、すべての積極的行動を思い止まれという意味です。なるほど、市役所のセンスのないスタッフに会えた事も、今は動くなというサインだったのだろう。そう考えると、なるほどとなる。僕は直感的に1年を過ぎるまで待ってから申請しようとこの時に決めた。

2011年の2月に今度は年金事務所に相談に行ってみました。妻の状態を説明してみると「申請してみてもいいのではないか」という回答だった。「審査は東京都が行う事なので、申請が通るかどうかはわかりませんが、お話を聞いていると通る可能性は充分にあると思います。」ということでした。「あぁ、センスのある人だ(笑)」と思った。これはGOのサインだ、風が吹いたと思いました。書類をそろえて申請をした結果、審査は通りました。この制度は、審査が通れば、申請した月にもどってスタートとなります。要するに、申請は少しでも早いほうがいい。しかし、審査が通らないとスタートしないし、書類をそろえるにも診断書などお金がかかります。一つ一つ申請には、労力がかかります。この細かい作業は、仕事をしながら、病院へ通いながらやるのがなかなか大変です。

合点がいかない事や、どこに相談しても始まらないことは、たくさんあります。そんな時は自分の潜在意識に問いかけてみるのが一番いい。他人に相談してもみなが困るし、答えてくれても、自分で決めていないとしっかりと腑に落ちない。そんな時は、心を落ち着かせてから目を閉じて風を行方を感じてみることが大切だと思います。

未分類 | 09:47:32 | トラックバック(0) | コメント(0)
ベッドサイドからの景色(16)
<窮まれば変ず。変ずれば、通ず。通ずれば久し。>

時はとどまることなく、変化し続けます。そして、陽が窮まれば、陰へ変じ、陰が窮まれば、陽へ変じます。夏が極まり冬へと向かい、冬が窮まれば夏へと向かいます。しかし、その背景に現れる目に見えない「兆し」みたいなものがあります。それは、出会いだったり、体調だったり、色々な形で現れるようです。

次男の就職のことで思い出したことがあります。大学入試の時のことだから、もう7年前の話です。彼はドラムを叩いていて、バンドが好きで、歌もまぁまぁ歌えるタイプでしたから、大学など行かずに、バンドをやりたいなどと、言い出すのではないか?と思っていました。僕は高校卒業後、家出同然に飛び出したような人だったので、その時はしょうがないなと思っていました。ところが僕と違って真面目な次男は、何故か?本当にどうしてなのか?まったく良くわからないけど、社会福祉を学ぶ大学へ行きました。僕はバンド好きな息子がそこに行ってもつまらないだろうと思い、「良い事だけど、つまらないぜ」と言って、他の大学へ行けば?と勧めたりしていました。本人も「何故かわからないけど、ここに行きたい」と言って、田園調布学園大学というところに入学しました。そして大学卒業後は病院で手術後の器具洗浄をやっていましたが、転職し、CMなどの撮影用美術制作の会社に入り、楽しく仕事をしていました。しかし昨年、ヘルニアを煩い退社しました。その後、様々な仕事の面接に行ったようですが、なかなか職につけずにいましたが、今年の2月、介護用品レンタルの会社へ入社しました。これも、卒業した大学からすれば自然ですし、就職動機とすれば母親の状況からすると、これも自然な事でした。まさに、窮まり変じて通ずる・・・です。。

今回、僕がこのブログを書き始めたのは、山元さんの講演会を見に行ったことがきっかけでした。この講演会に誘ってくれたのは、25年以上前に一緒に仕事をしていた歌手の方からの誘いでした。Facebookを通して声をかけていただき、この講演会に行き25年ぶりに再会しました。本当に不思議なものです。それから山元さんへメールをし、メールのやり取りの中で「白雪姫プロジェクトに入り、ブログを書いてみませんか?」と声をかけていただき、この3年を振返りそれを未来へ繋げて行こうとブログを書き始めました。文章にしてみると、自分でも、そうだこんなことがあったなぁ。このタイミングで、この人と出会えて本当に助かった。こんな事がきっかけで、息子が結婚して、孫まで生まれた。この嫁なら、妻の状態を説明しなくてもわかっているから良かった。あの時、息子と会わずに、お礼の手紙を切手を貼って投函していたら、17年ぶりの再会は無かったかもしれない。このほんの少しの差で、息子の結婚はなかったのかもしれません。・・・など、自分と家族の人生を振返りながら、この2週間、一気に文章を書き続けて来ました。

僕自身の人生で、こんなに毎日文章を書くことは初めての経験です。2010年の手帳を見ながら、「目をあけた」「気管切開手術」「指がうごいた」などなど、ちょっとしたメモを見つけると、その時の情景や感情が浮かび上がってきて、それをただただ文字にしてみると「僕というのは、こんなことを考えていた人なんだな」ということが見えて来て、面白いものだと思いながら書いていますが、文章から見えてくることの一つは、すべてが繋がっているという事です。そこに「縁」というものを感じるのです。

一昨日の夜にレッツ・チャットの開発者の松尾さんからメールをいただき、土曜日(今日の事です)の午後、妻のところにレッツ・チャットを持って来てくれるというメールが来ました。偶然、納品予定が一件キャンセルが出て、時間があいたのが、妻の病院の近くだったそうです。僕は言語伝達装置としてこう言うものがあると知ってもらいたいと思い、担当ソーシャルワーカーにも立ち会ってもらう事にしました。見ておいていただけると、次のカンファレンスの時に、僕たちが進んで行きたい回復の方向として、ここを目指したいということが伝わりやすくなります。

昨夜、山元さんへ松尾さんが訪ねて来てくれることをメールしました。山元さんからは、松尾さんは、スイッチを使える場所を捜すのが上手な方だと返信がありました。松尾さんを待ち構える為に早めに病院ロビーで待機していたら、松尾さんは約束の30分前にいらっしゃいました。早速、妻に紹介してから、色々なスイッチを見せてもらいました。今日の妻は少し熱があったためか、集中力が足りなくて、目がなかなか開きませんでした。期待しながらも1時間半ほどの時間の中でスイッチを使えそうな場所を見つける事は出来ませんでした。これからも、そんなに簡単な事ではないし、とても険しい道だろうと思います。

振返ると、様々な「縁」と「出会い」を経験して来ましたが、それはいつも、「今すぐに効果が出る」というものではありません。いつだって、いくつもの「出会い」が複雑に絡み合って、そこにたどり着くのです。その「出会い」のタイミングはいつだってピッタリと合っています。僕は山元さんの講演会を通じて<白雪姫プロジェクト>と出会い、松尾さんのレッツ・チャットと繋がりました。そして今日、どなたかのキャンセルの都合で、偶然にも松尾さんとお会いする事が出来ました。レッツ・チャットの実物を見る事ができ、その素晴らしさと、スイッチの種類とスイッチセンサーの性能を具体的に把握出来た事は、とても大きな収穫でした。次のステップへ向かうイメージがはっきりとしました。

<白雪姫プロジェクト>との出会いは、僕と妻にとって、とてもいいタイミングでやってきました。昨年、僕が肺炎、肝炎、ヘルニアと連続的に身体を壊し、それが原因で、会社を辞めたのですが、これも妻のところに毎日行ける時間へと繋がりました。これもきっと、妻の意識が出て来たこのタイミングでやってきたチャンスを、僕の身体が教えてくれたのだろうと思っています。そんな時、山元さんの講演会へ行き、<白雪姫プロジェクト>を知ることになりました。きっとこれも「ご縁」なのだろうと思いました。妻には次へ進む「道」が用意されているようです。それは、きっと宮ぷーのうしろに出来た道なのだろうと思います。

未分類 | 19:44:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
ベッドサイドからの景色(15)
<無言の力>

妻が倒れて4日目の朝「こいつ、生きるつもりなんだ」と思った。
正直、大変な道を選んだものだと思いながらも「きっと、何かやり残しがあるに違いない」と思っていました。それは、間違いなく息子たちを見守りたいという、強い気持ちだろうと思っていました。妻は自分が倒れたことをきっかけに、1年後には、長男を結婚に導く出会いを演出し、2年半後には自分をゴッドグランドマザーへと押し上げた。かなり計画的である。やはり、僕たちは、本当にこれを自分たちで計画して生まれてきているのかな?などと思ってみると楽しくなったりもする。もちろん、妻はそれどころではないだろうが、エリザベス・キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」などを読んでいたので、まぁ、怒ったりはしないだろう。なので、こんな事も話しかけてみている。

2度目の奥沢病院入院の頃、徐々に目をしっかり見つめ返しているとわかる時があった。11月療養病院へ転院してから、リハビリを中心とした生活がはじまり、その頻度が高くなってきた。2011年2月2日僕たちは銀婚式を迎えました。この頃にはもう目がしっかりとして来ていました。そうだ、DVDなどを見せて刺激をあたえていこうと考えて、プレゼントするDVDを何にするか?少し悩みました。映画もいいけど、恐いシーンがあると、心にそれが焼き付いてしまうと良くないし、なんかもっと過去を振返る事が出来て、音楽のように当時の生活とリンクするようなテーマのものはないだろうか?と考えて、僕は「るろうに剣心」のDVD-BOXを購入して妻にプレゼントすることにした。1996年から98年にかけてテレビで放送されていたアニメで、息子たちが8歳、10歳という頃だったので、妻は子供たちと一緒にテレビを見ていた。剣心の大ファンになっていた。このアニメは、ところどころエグイけど、まぁ、これは恐怖に直結することはないだろう。時間がとれるときは、出社前の30分をこのアニメを見せながら、マッサージするということにした。家から病院まで約1時間半、病院から会社まで約1時間半 病院に30〜60分いたので、家から会社に到着するまでには、3時間半から4時間かかっていた。しかし、この刺激を与え続けるというのは、妻が倒れた時からはじまったテーマで、妻が生きることを決めた時、それは僕の人生となるだろうと思っていた。

DVDを見せていると、かなり集中力を高めて見ているように感じる。もちろん、気がついたら眠っているときもある。僕の勝手な思い込みの可能性もあるが、久しぶりにみた娯楽アニメを楽しんでいるように感じていた。たまには長編も見せてみようと「もののけ姫」がとても好きだったので、DVDを買ってきて見せたときには2時間しっかり見ていた。これは、確実にわかっているのだ。その姿を見ながら僕は思う。「この沈黙とすごみのある眼差しには、誰も逆らえないだろうな。」

長男が2011年の11月に結婚し、息子たちもそれぞれの道を歩き出した。あの無言の力でいつも睨まれているので、僕らはみな頑張らなくてはならない。次男は大学卒業後、仕事についていたが昨年2012年の秋身体をこわし退社した。人生色々ある。とにかく自分で決めるからと就職活動をつづけていたが再就職先がなかなか決まらないでいた。今年になって、やっと仕事が決まった。介護用品レンタルの会社だ。息子に「面接の時に、おかあさんの話をしたんだろ?」「うん」「それだな。そんな境遇で、頑張ると言えば、僕が面接していても採用しちゃうもんな(笑)」
「ははは、そーだね。」「結婚の次は、お前の就職も決めたわけだな。」「そーだね。」

妻は無言で寝たままなのに、超能力者のように力を発揮しつづける。
倒れても、ただでは起きない女なのだ。

それにしても、次男は無言ではないが、言葉は少ない。

未分類 | 12:49:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
ベッドサイドからの景色(14)
幼なじみ

「縁」

2010年11月8日 4回目5つ目の病院へ転院した。この病院はリハビリを主軸にした「回復」を目的とした病院です。妻が倒れて入院の意味が2つある事をはじめて知った。急性期の病院と、療養型の病院です。そして、療養型の中でも、また2種類、こうして「回復」を目的とするところと、自宅介護でが不可能なので「療養」として入院するところがあることも、はじめて知りました。以前、最初の病院から紹介された療養病院はすべて後者でした。基本的な考え方がベースにあるのですが「死ぬまで治りません。寝たままで、意識がもどるかどうかもわかりませんが、たぶんもどらないでしょう。」という考え方が、脳幹出血の患者に対してのは医学的には「常識」なのではないでしょうか。なので、その医学的「常識」として物事を考えると、リハビリなど、回復のためのアプローチは、回復の可能性のある患者に行う行為であり、このタイプの患者に行う必要はないと思われている「常識」があるのではないでしょうか。それにしても僕たちはついています。幸せなことに、前者、「回復」を目的とした療養型の病院に入院できたのです。そこに入れることだけでも、現在の日本では奇跡的なことではないでしょうか?

こうして妻は理想的な療養型病院での新生活がはじまりました。入院での衣服はすべてレンタルする仕組みになっています。そこに2タイプのコースがあります。1日で就寝時と昼間リハビリ時の服と着替えるコースと、就寝時の寝衣だけで一日中をすごすコースです。僕は迷わず着替えのあるコースをお願いしました。着替えることで、関節を動かす、身体を動かす作業が一日最低2回行われる事になります。これは日課として考えれば、大変大きな効果だろうと考えました。そして「言語聴覚療法」「理学療法」「作業療法」が1週間に各2回づつ行われます。お風呂は1週間に3回はいる事ができます。僕もなるべく毎日通っていましたが、これだけのプログラムが組まれているので、刺激を継続的に与えられる素晴らしい環境での生活は、たとえ険しくとも、「回復」を目指した道のりなのだと感じました。こんな幸せはありません。入院は半年から1年という期限付きでしたが、2010年は転院に明け暮れていたので、少しゆっくりできるという安堵感もありました。

12月に入り年賀状の準備をしはじめた時、妻が出していた年賀状リストの中に、妻が倒れたことを知らない人がいることに気がつきました。住所管理は僕のPCでやっていたので、妻の友人たちの住所データもわかっていました。しかし、年賀状に何のコメントも書かずに、ただ出すのでは感じが悪いだろうなぁ・・・と思い、年賀状でのお知らせとなりびっくりさせる事になるけど、妻が倒れ植物状態だけど生きていますと書いて出す事にしました。相手がこれを見た瞬間、最悪な年賀状だろうと想像しながら、僕の携帯電話の番号を書いて出すことにしました。

妻の友人からは、すぐに電話がかかってきました。「年賀状でのお知らせとなり、本当に驚かせてごめんなさい」とお詫びをしました。この友人は、僕たちが公団住宅で暮らしていた頃、醤油の貸し借りをするおつきあいをしていた近所の主婦友達でした。ある日、病院へ行ったら、お見舞いに来てくれた形跡があったので、お礼の手紙を書き郵送しようとしていたら、息子たちが来たので、妻の友人宅のポストに直接投函してもらおうと息子に渡しました。後日、息子たちはそのお宅に伺って、僕の手紙を手渡し、妻の倒れた時の話をしたようです。そのお宅には、娘さん2人、息子さん1人がいて、みな砂場で泥んこで遊んでいた幼なじみでした。きっとこの砂場の友達とは17年ぶりの再開だったはずです。それから、息子たちはこのお宅に定期的に遊びに行き、食事をさせてもらったりしていたようです。幼なじみもいて、楽しかったのでしょう。

2010年2月 妻がたおれました

2011年2月 妻の友人がお見舞いに来てくれました

〜息子は僕の書いた<お礼の手紙>を届けに行きました

〜その時に、この写真のふたりは、17年ぶりに再会しました。

2011年11月1日 ふたりは籍を入れました。

2012年9月26日 妻はおばあちゃんになりました。

もちろん、僕もおじいさんになりました。

未分類 | 19:53:22 | トラックバック(0) | コメント(2)
ベッドサイドからの景色(13)
<転院、そして転院また転院>
2010年の一年は、妻の転院に追われる一年だった。奥沢病院に入院していた、この夏。そろそろ、療養型の病院へ入ることを考えていかないといけない時期だ思っていた。妻が倒れてから半年が経ち、おしっこを自力で排出が出来るようになった。発熱は続いているが、安定している日も多くなってきた。7月14日に面接にいった療養型病院はとてもいい病院でした。リハビリを積極的にやることを目的とした療養型病院で、設備はもちろん、多様なリハビリを行う専門家スタッフがそろっていていました。寝たままでお風呂にも入れるシステムもありました。これは、とても魅力的です。定期的に全身お湯につかれるなど、素晴らしい!すぐに申込書を書いて7月21日に提出しに行きました。しかし、こういう人気のある病院は、当然満室ですし、だいたい1年待ちという状態でした。またリハビリを中心としている病院でしたので、入院期間も半年~1年ということが条件づけられていまいした。しかしこれまで1~2ヶ月で転院を繰り返していたので、半年でも1年でも、同じ病院に入院できることは、僕としても精神的に落ち着けますので、まずはこの病院へ入ることを目標にしようと思いました。

この病院を見に行った時に「あれ?」っと思ったことがあります。最初の救急病院から転院を促された時、何故この病院がリストアップされていなかったのだろう?と不思議に思いました。場所的にもリストアップされてよいはずですし、金額的にも折り合いがつく病院でした。何も月40万の病院だけ紹介してくれなくても、こういう病院もあると、何故教えてくれなかったのだろう?と思いました。これは想像でしかありませんが、半年から1年、もしくはそれ以上、待ち時間があるということで、紹介するリストからは、はずされていたのでしょう。しかし「そりゃぁないんじゃない?」と思うのです。最初の病院のソーシャルワーカーからすれば、すぐに転院できる病院だけの紹介ということだったのでしょう。しかしそれは、僕ら、患者の家族にとっては、大切な情報をひとつ削られたのと一緒でした。教えてもらっても、あの5月の時期にここに入ることは出来ないとしても、療養病院でもこのような病院があるという情報は大切なことだったのにな、、と思いました。しかし、大切なのは「今」です。今、この病院にちゃんと巡りあえて、入院できるチャンスがやって来たのだから、これで良し!です。希望する急性期病院での入院を半年以上続ける事が出来て、次のステップとして理想の療養病院に巡りあい、入院へアプローチすることが出来るのです。その上、この理想的な療養病院を目指すために、奥沢病院が転院の繰り返しを駆使した体制でサポートしてくれるのです。こんな、幸せなことはありません。

入院している本人は、どうなのかわからないけど、病院に通いながら仕事をしていた僕にとっては、1ヶ月という期間はまさに、あっという間に過ぎていきました。あっという間に、真夏から秋になり、11月になった。2度目の奥沢病院での妻の持ち点はまたもやあっという間にゼロ点になっていました。そろそろ、次の転院の時期である。妻に「あー、またゼロ点の女になっちまったんだぜ。」などと、冗談を言ってみるのですが、妻には何の事だかわからなかったでしょう。いつものように、無表情にどこかを見ているだけでした。

11月4日(木)に病院へよったときのことだ。奥沢病院のソーシャルワーカーさんから「西嶋さん。療養病院のベッドが空きました。行くのなら今です。ベッドが埋まれば、また次がいつになるかはわかりません。」と話があった。僕はもちろん「お願いします。」と即答しました。なんと11月8日(月)に転院することになった。慌ただしい展開だが、これで、持ち点ゼロから脱出できることになった。

11月8日(月)朝、8:00に奥沢病院へ行き、荷物の整理をした。
チャーターした救急車型の車は、9時過ぎに来る予定だ。9時半に奥沢を出て、療養病院に11時前につく予定だ。2回目の転院からこの救急車の会社の常連となり、同じ担当者がついてくれるようになっていた。この担当者の娘さんが芸能関系でダンスをがんばっていることなど、車の中で話たりする関係になっていた。奥沢病院の外来は9時スタートだ。この日は松村先生が外来を受け持っていた日だったので、挨拶が出来ないなぁと思っていた。妻をストレッチャーにのせて、運ぼうとしていた時、松村先生は、外来をちょっと抜け出して、妻のところに来てくれた。そしてこう声をかけた。「清美さん、またねー!」こんな、優しい言葉って他にある?半年先、一年先、転院しなくてはならなくなったときには、ここ奥沢に戻っておいでと声をかけてくれたのだ。不覚にもぼくは涙で声が出なくなってしまい、お礼の言葉も言えず、先生と握手をして頭を下げただけで、泣きながら救急車へ乗った。たまらなかった。この「またねー!」は一生忘れられない言葉になるだろう。

未分類 | 13:16:45 | トラックバック(0) | コメント(0)
ベッドサイドからの景色(12)
<転院・入院の意味>

奥沢病院に転院してすぐに松村先生から胃瘻の設営手術を勧められた。口から食べる能力がないので、鼻から経管栄養を流し込む管を通していたのだが、誰がどう考えてもずっと鼻から胃へ向かった管があることは、違和感の塊だったことだろう。約4ヶ月もの間、管が鼻から差し込まれていて、定期的に抜き出され、あらたに消毒された管をまた鼻から差し込み直すのだ。文字で書いても、何と言うか鼻の奥の粘膜が擦れてきそうだ。確かにそれを考えると、胃瘻という仕組みはよいだろう。先生はメリット、デメリットをしっかりと説明した。デメリットはまた身体に穴をかけることだ。しかしメリットのほうが多いこと、そして何より本人にとって、鼻から管が入っている異物がなくなるのだから、快適になるだろうと説明してくれた。6月6日に胃瘻設営手術をしてもらった。理論的な説明をうけて、安心して手術を受けることが出来た。以前メールにも書いてあったが、松村さんは医師と患者、家族とのコミュニケーションをとても大切にしてくれている。コミニュケーションをとり、互いに理解しあうことが信頼関係だ。こういう事を<意識>し、さらに<実行>する人ってどれくらいいるのだろう?僕ら家族は、安心できる。本当にありがたい、幸せを感じました。

当時の妻は、尿も自分で排泄できなかったので、管を入れていた。どうしても炎症が起こり、尿が濁っている時には、とても心配になったものだ。奥沢病院では、経過を見ながら尿の管を外して、自力で排泄することのトライアルを定期的にやってくれた。難しいと判断すると、また管をつけるのだが、ただ付けっぱなしではなく、声をかけてトライアルをして、それを繰り返してくれた。いつの事だったのかは、僕の手帳には記録していなが、ある日病院へ行くと、尿の管がとれていた。1週間後経っても管が取り付けられることなかったので、自力で尿排泄が出来るようになったのだと分かった。とても嬉しかった。本当に一歩一歩だけど、こういう一歩は本当に嬉しいことでした。これも、きっと看護基準が25:1以下の療養病院へ行っていれば、当然人手が足りないので、たぶん、尿の管は付けたままとなっていたのではないだろうか?もちろん、想像でしかないが。ここにも、意識不明者で治らないけど生きているので<置いていただける場所>としての入院と、「清美さんは若い、まだまだ可能性がある」と、<回復へむけての場>としての入院の差が如実に表れていると思いました。何度も同じことを書いてしまいますが、本当にここにたどり着けてよかったと思うのでした。

2010年7月中旬、奥沢病院に来てから約2ヶ月になろうとしていた。最初に先生とお会いして説明をうけた、診療点数制度とのことで約束できる入院期間は1ヶ月~1ヶ月半が限界だと認識していました。その期間はとっくに過ぎていて、大丈夫なのかな?とさすがにこちらも心配になってきた頃、奥沢病院のソーシャルワーカーの方から、2箇所、病院を見学して来てほしいとお話をいただいた。すぐに先方の病院へ連絡をとり、面接に行った。ひとつは現在妻が入院している療養病院、もう一つは、奥沢病院同様の急性期病院だった。ソーシャルワーカーという方にいろいろと接してきたが、当たり前のことだけど、人それぞれタイプというものがある。奥沢病院の担当の方は、まず僕らの気持ちを考えてくれる。何故そう思うのか?そう僕が感じるのか?は研究していないけど、そういう風に感じるのです。そして現実としてニュートラルな情報をくれるので、とても分かりやすかったし、気持ちが患者の家族サイドに向かっていると感じられ、こちらの心もとてもリラックスが出来た。これは、奥沢病院全体に言えることですが、看護師さんたちも含めて、この病院のカラーなのでしょう。院長の人柄が伝染するというか(笑)そういう人が集まってくる病院なのでしょう。

この時の面接でも、療養型の場合はやはり(4)の転院探しの時と同様、定型文の通過が必要でした。もうわかっていたので「はい」のボタンを押してから、次にいくわけですが、これは形式として必要な儀式なのだろうと思うようにすればいいのだと、今後経験する方には伝えたいものです。必死に探している、精神的にも余裕のない状態でがんばっている人にとって、これはけっこうダメージが強いのです。それが分かってもらえると嬉しいのですが、形式とはなかなかそうは行きません。急性期の病院では、医療体制がもともとちがうので、この儀式はありませんが、普通は入院することが出来ないわけです。

8月に入り、本当にこんなに入院させてもらっていて大丈夫なのだろうか?と心配になってきましたが、僕らには何も術がありません。そして8月中旬頃にやっと次の転院先が決まりました。急性期病院のほうにベッドの空きが出来て、入れてもらえることになりました。面接のときにも言われましたが、期間はやはり1ヶ月が限界だということでした。慌ただしい転院を繰り返していくことになると覚悟していましたが、倒れて半年たった脳幹出血の患者が、まだ急性期の病院へ転院できることは、とても幸せなことでした。本当に診療点数制度は僕らにとっては困る制度でした。一つの病名だけですっきりとルールを決められても、人にはそれぞれ、特殊な病状、事情を抱えているので、例外に対する処置が、医療サイドとしても出来ないルールは、困ったものです。僕の場合は、本当に奇跡的な出会いですので、この部分については参考にできない例でしょう。こうして8月27日(金)奥沢病院から次の病院へ転院し、コーヒーはスターバックスからマクドナルドに変わりました。

マクドナルドのアイスコーヒーに、クラッシュアイスを多めにオーダーして、病院へ通う日が続きました。とにかく、暑い日が続いてて、ヘトヘトになりながらも1ヶ月はすぐに経つのです。さて、次はどうなるのだろうと思いながらの転院でしたが、さらなる転院先はすぐに決まりました。3度目4つ目の病院は、なんと奥沢病院でした。今思えば、答えは簡単です。松村先生が、転院先予定の療養病院の空きが出ない時は、再度奥沢病院へ受け入れることにしてくれたから、2度目の転院も急性期病院へ転院できたのでしょう。以前、あれだけ探しても、門前払いが普通なのだから、倒れてから半年もたっている脳幹出血の患者を受け入れてくれる急性期病院は普通はないはずです。きっと一ヶ月という条件で、受け入れてもらい、次なる場所が見つからない場合は、再度、奥沢にもどるという事にしてくれていたのだろうと思います。どこまで、幸せなことだろう。9月28日(火)、妻のコーヒーは、またもやスターバックスになりました。妻も喜んでいるように見えました。

未分類 | 16:46:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
ベッドサイドからの景色(11)
<おばちゃんの名言>

2010年7月18日(日)
九州から母の姉が東京に来ていたので、二人をつれて奥沢病院へ妻の見舞いに行く事にした。母の姉だから、ぼくにとっては伯母さんであるが、これがスーパーポジティブな熊本のばあちゃんなのである。

4年前(2009年だったと思う)のある日、このポジティブな肥後ばーちゃんが東京に来たときに、妻も会う機会があった。伯母さんはこの時すでに肝がんを患っていた。肝炎の発症を確認し、その後悪化して、肝硬変、肝がん、と移行していった。今から約30年前のある日、どうしても身体が動かないので変だと思い、病院で検査したら、肝炎になっていたそうだ。これは、1950年〜88年の予防注射の針の使い回しが原因・・・というあれだ。しかし、伯母さんは、なってしまった事に文句は言わない。そんな事にパワーを使っても意味がないと思っているタイプで「病気になったのなら、今後をどうするか?それが大切だ。」という考え方だった。とにかく、未来にしか興味がない人だった。妻も一緒に、このスーパー・ポジティブ肥後ばあちゃんに会った時の事です。何の話の流れでかは忘れたけど、

「貴丸。この世に病気で死ぬ人間は一人としておらんとたい。病気は病気、命は命たい。」

・・・という名言を妻と一緒に聞いた。がーーーん。すごい衝撃だった。「なるほどー。」と目が覚める思いだった。もしかしたら、妻の乳がんの話なんかをしていて、その話の流れだったのかもしれない。伯母さんは、自分の話はその時にはしなかったので、僕は、肝がんのことは知らなかった。

そのスーパー・ポジティブ肥後ばあちゃんである伯母さんが、妻の見舞いに来てくれた。奥沢病院まで、車で2時間弱。到着して妻の病室へいくと、すぐ妻の手をとり、耳元で大きな声で「清美ちゃん!生きんしゃーい!寝とってもいいけん、生きんしゃい!良く今まで働いた、これからは寝ててんよかばい。病気は病気、命は命たい!清美ちゃん、絶対生きるんよーっ!」と、声をかけてくれた。これだけ言いきってくれると、なんというか、涙ながらにも清々しい。

4年前に妻と一緒に聞いたこの名言は「あれはすごい。確かにその通りだよね。」と妻とも話をしていたので、おばちゃんの声は絶対に妻の心に響いただろうと思った。もちろん、顔つきは、相変わらず無表情なんだけど。

僕は、色々な人に、人は支えられているのだなと、ここでも思った。声を掛けてくれている伯母さんを見ながら、僕も支えられていると思った。「病気は病気、命は命」これは真実だろう。そもそも、命がなけりゃ、病気になることも出来やしない。寿命は天が決めることだ。僕は妻は今生で「愛を受け取る」ということを経験するために倒れたのだと思っている。いつも、愛情を注いでばかりいて、受け取ることをしていなかったのではないだろうか?そう思い「今回は、寝たままで大変だけど、それを受け取る練習をしてみよう」と声をかけている。与えるのは簡単だけど、受け取るのが苦手の人もいるようだけど、そのために今回は、倒れることをしなくてはならなかったのかも知れない。

スパー・ポジティブな肥後ばあちゃんは、先日、3月18日の早朝に旅立った。癌発症から約10年、笑顔だけで生きていた。たまにしか会わないけど、本当に笑ってばかりだった。ゴッドーマザーな伯母さんの3月20日の葬儀には、一族全員が集まり、しめやかな葬儀のあとは、賑やかな大宴会となった。最後まで、ポジティブだった伯母の教え「病気は病気、命は命」これは僕の中にズドンと収まっている。妻の心にも、しっかりとあるはずだ。生きる意味がそれぞれにあるのだろう。その生き方を、伯母のようにしっかりと人生を生抜き全うしたいと思う。

未分類 | 00:04:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
ベッドサイドからの景色(10)
2010年7月19日(月/海の日)
貴子さんと塩入さんのスケジュールをあわせて、「夢の雫」をレコーディングする日が来た。

14;30に豊洲駅で、従姉妹の娘くるみ、と待ち合わせをして一緒にスタジオへ向かった。
熊本から音楽大学のピアノ科に入り東京に来ているという事を、前日18日にたまたま知り、電話してみたのだ。この日は、息子たちも来るので、ふた従姉妹と言うのかな?こういう場所で会うのも縁だろうと呼ぶ事にした。塩入さんのピアノをスタジオ環境で聴けるなんて、普通は経験できないのだからすごい事だろう。

ピアノの調律も、僕がいつもピアノのプログラムのときに頼んでいる方に来てもらった。
エンジニアも、これまでにKAN、シャ乱Q、谷村有美、白井貴子、スターダストレビュー、杉田二郎、因幡晃、、、、などなど、一緒に仕事をしてきた方で、これまでのレコーディングの中で、さまざまな事を教えてもらった恩師である。そして、このレコーディングがとても素晴らしいものになると感じていたので、貴子さんのレコーディングをそのまま記録しようと思い、ムービーでの記録を友人の映像作家:翁長さん(http://www.if-inc.com/)にも来てもらっていた。さまざまなアーティストに信頼され、ライブ映像、プロモーションビデオを作り続けている人だ。
万全の体制の中、レコーディングが始まるはずだった。

「あれ?」貴子さんが来ない。「少し遅刻しているのかな?・・・。」
とその時に、携帯が鳴った。ギタリストで貴子さんの夫、ホンチからの電話だった。「あー、西嶋さん。貴子がどっちかなぁって言いながら、赤羽橋のスタジオだったはずだって言うから来たんだけど、ちがったみたいで。。。」「えーっ、あんなに話したのにー、、そもそも、そのスタジオ、ピアノないじゃん。もーっ。こういう話はアーティストはダメだなぁ(笑)ま、しょうがない、待ってまーす。」という事で、時間が1時間以上待ち状態となった。

くるみちゃんは、ピアノコンテストが次の日曜日にあると言っていた。では、この隙に塩入さんにピアノを聴いてもらおう、と思いついた。何と言う曲だったかは忘れちゃったけど、ショパンの曲だった。塩入さんは一度自分で弾いてみせてから、その後、1時間みっちり、レッスンをしてくれた。なんせ、他にやることがなかった(笑)

70分後に、貴子さんは「ごめんなさーい」と、何故が高原牛乳の大びん2本をぶらさげて登場した。暑い日だった。きっと、僕の体調を気にして、少しでも元気づけようと持って来てくれたのでしょう。貴子さんはこういう可愛いところがある。1リットル瓶2本は重かっただろうに、思ったことをすぐ行動に移すのだ。その気持ちがありがたい。曲のタイムはたぶん4分程度だからレコーディングはすぐ終わるだろう。一休みしてからスタートすることにした。

Key合わせもしていなかったから、打ち合わせからスタートをする。その打ち合わせで貴子さんの意見と、僕の意見が分かれた。僕が使いたかった貴子さんの声のレンジは、本人にとっては、とても大変な音域だった。しかし、僕はやっぱりそのレンジの声がほしかった。妻のためだけのプライベートプログラムだったので、貴子さんは最終的な判断は僕に委ねてくれた。それで、僕が思っているKeyで歌ってもらうことにした。https://www.youtube.com/watch?v=LkroQujetQk この映像の前半部分のリハーサルと、1分35秒から始まる本番の音源に、半音差があるのはこのためだ。塩入さんは、譜面を書き変えることもなく、すぐに対応してくれたが、ギターでカポタストをしているわけではない。生ピアノである。それも半音の転調を頭の中で行い、そのまま弾くのだ。このKeyだと黒鍵だらけなのに、頭の中はどうなっているのかな?・・・などと思いながらも、まったく流れが止まらず、スムーズに進行して行けるので、いいムードで本番に突入することが出来た。

もう一つ、貴子さんへ条件を出していたことがある。歌える人によくあるのだけど、歌のテクニック的なディテールにこだわって、歌全体の流れの良さを採用せずに、歌い直すこととで、その人のくせや息づかいが消えてしまい、僕にとってはもったいないなぁと思うことを、色々なアーティストで過去に何度か経験していた。なので、今回はカラオケを制作せずに、生ピアノとの同時録音で、“歌い直しは一切なし”という条件でやってもらいたいとオーダーしていた。これが今回の僕のプロデュース方針だった。目的によりますが、歌をちゃんと歌える人はぜひこうあってほしと今でも思っています。昔ある記事でビリージョエルは、レコーディングでもピアノを弾きながら歌を歌っていると書いてありました。ピアノを弾きながら歌うということは、マイクでの録音上、音の回り込みがあるから、絶対に歌い直しは出来ない。それが、あの自然な表現力に繋がっているのでしょう。

このレコーディングは、本番をそのままスタジオの中で映像で記録していたので、貴子さんの歌を妻に映像でも届けたいと思っていた。目が見えているかどうか?分からなかったけど、<聞こえている、見えている>を前提としていました。レコーディングは3テイクとり、2テイク目を採用した。実質の時間はKey合わせなどの打ち合わせに30分、レコーディングは3テイクで休みを入れて30分で終わりました。その後、息子たちも参加して、みなで「ハッピーバースディ」を歌ってレコーディングは終了しました。この「ハッピーバースディ」はとても大切な役割を担っています。妻に「今日が誕生日だ!」とはっきりと自覚させるためのアイテムです。その上で「夢の雫」を聴かせることで、プレゼント曲であること、そして大切なメッセージであることを伝えることが出来るという計画でした。

8月15日(日)1日早いのだが、イブということで息子たちと奥沢病院に集合した。映像はまだ仕上がっていなかったので、音をヘッドホンで聴いてもらいました。まずは、「ハッピーバースディ」そして「夢の雫」を聴いてもらった。これが、ガッカリするほど無表情なのである(笑)しょうがないことは頭では理解していますが、やっぱり心はガッカリするのです。どうしても人間は「求める」生き物なのでしょう。いちばん辛いのは妻であることは、わかっているのですが、このメッセージが心の底に届き、変化を起こしてほしいと僕の心は「求める」のです。無表情ではありますが<メッセージは届いた>・・・ということにして病院を出て、久しぶりに、息子たちと食事に行きました。

8月後半、翁長さんから映像が仕上がったと連絡があり、すぐに見に行った。翁長さんはいつも途中経過は見せてくれない(笑)。納得するところまで追いつめてから、その結果を見せるのだ。途中で色々意見が出て来ても、まだやりのことしている事がある場合、それを口で説明することは難しい。だから、しっかりやりぬいた上で、見せるという方法をとっているのだろう。

翁長さんは、何も説明せずに「まぁ、見てみてください。」と一言。この映像にはびっくりした。まったく予想していない編集だったからだ。僕は貴子さんのレコーディングの流れを、貴子さんを中心に記録する映像として仕上げる予定でお願いしていたからだ。たしかに僕にとっては、ターゲットが一人で目的がハッキリとしている作品だった。しかし、このアプローチには正直びっくりしました。しかし、僕自身の目的をよく考えると、より妻に伝わるものになったと思いました。

翁長さんが妻を見舞いに来てくれた日のことを思い出した。4月26日の午後、翁長さんはカメラひとつ首にぶら下げて病室に訪れ「西嶋さん、記録とっておいてもいいですか?」と言われました。「はい、問題ないです。お願いします。」と僕は答えました。当時の僕は、妻が気が変わっていつ向こう側へ旅だつかと心配していたので、こっち側にいる妻を記録することは賛成だったのです。この日は、病院のスタッフ3名に囲まれて、転院を約束した日でした。そして、午後には気功の先生の二郎さんも来てくれて、妻に気功治療をしてくれた。その治療の途中に翁長さんが見舞いに来てくれたので、そのまま僕の自宅に来てもらいました。それで、あのような映像素材がそろっていたわけだが、まさがそれがこの曲に組合わさることになるとは思ってもみませんでした。

映像を見終わったあと僕はもちろん「ありがとうございます」と言いいました。翁長さんは僕の妻へのアプローチの意味を理解していたから、このような編集にしたのでしょう。そして「この歌を同じ境遇の人に共有するべきだと思う」と、翁長さんのメッセージを付けて後日YouTubeにアップしてくれました。

そう言えば翁長さんは、貴子さんの遅刻での待ち時間に塩入さんが特訓してくれた、くるみのピアノレッスンを全部記録してくれていました。それをすぐに編集してDVDRにしてくれたので、くるみにすぐに渡しました。それを見直しながら、くるみはコンテストまでの数日、集中的に特訓をしたそうです。何と言うコンテストなのか?僕は知らないけど、くるみは全国大会で3位に入賞したと後日、連絡がありました。
貴子さんの遅刻は、すばらしいオマケも生み出しました。

未分類 | 23:09:31 | トラックバック(0) | コメント(0)
ベッドサイドからの景色(9)
< 「ベッドサイド」 そして「夢の雫」 >

「ベッドサイド」 という詩を書いたのは、妻が倒れた日の晩、気がつくと妻の呼吸が止まっていて、もうもどってこないのではないか? と思った時に、悲しみの感情の波が押し寄せる中で、自分の気持ちを書きとめることで「さよならのその時」を自分なりに受け止めようとしていたのだろうと思います。同時に”生きている妻”を僕の心に焼き付ける作業だったように思います。その言葉にメロディーがついて、録音することになったわけですが、佐藤準さんが編曲&演奏してくれたイントロとエンディングは、希望の光を表しているように感じられ、因幡さんはすぐ目の前に妻がいるように、話しかけるように歌ってくれました。この音源が録音されたときに、あぁ、これは「祈り」の歌だったんだなと思いました。

以前、何の本だったか忘れましたが、「祈り」の効果について書かれている本を読んだことがある。同じ植物の種を同じ個数AとBのシャーレに入れる。Aのシャーレに入っている種に、実験に参加している人10名が、毎朝、毎晩、時間を決めて「すくすく、元気で育ってね。愛しているよ。」・・・のようなお祈りをする。Bには何もしない。そうすると、Aのシャーレに入った種からの発芽が早く、成長が促されたという実験だった。その科学的な理由はわからないけど、何度か同じような実験を繰り返してみても、祈りの効果は毎回、表れたという報告をまとめたものだったように記憶している。そう言う意味からも、僕ら家族はいつもそれぞれの心の中で、妻の回復を祈ることをしようと、妻が倒れた日に息子たちと話をした。3年前は、顔をあわせると「やってる?」と聞くと、「やってるよ」と答えが返ってきていたが、最近はみなそれぞれの生活も変わって来ていて、妻も安定しているので、きっともう“お祈り”は続けていないだろう。

最初の病院にいるときに、この曲「ベッドサイド」を妻に何度も聴いてもらいました。妻の大好きな因幡さんの声で「思い」をストレートに届けることができたので、歌詞に託された“祈り”はしっかりと伝わっただろうと思います。


奥沢病院へ転院した頃から、8月の妻の50歳の誕生日に何をプレゼントすればいいのか? 考えはじめていた。松村先生と出会い、ますます妻の意識があるのだという思いを深めていった。しかし同時に色々と不安も出て来ました。意識がはっきりして行くにしたがって、妻は自分自身の“絶望的な現実”を把握していくことになります。声が出ない。四肢も動かない。首も動かない。きっと、最初は理解したくなかったりするだろうが、やっぱり毎日、目をさますとその“現実”を思い知ることになる。意識の回復とともに、妻は“恐怖”と“絶望”を感じていくことになるだろう。そう考えると僕もとても不安になるのだが、不安だと言っているだけでは何も変わらない。次のアプローチを考えなくてはならない。とにかく毎日、声をかけて、勇気づけながら、僕ら家族は何も変わらず一緒に生きていくんだということを妻へしっかりと伝えることが必要だと思うようになった。その上で、妻が感じているであろう“不安”や“恐怖”は現実だと認識してもらわねばならない。その現実の認識の上にしか回復への道はないのだから。

耳元で毎日、コーヒーの香りとともに「大丈夫、大丈夫」と話し続けているのだけど、もっと確実に心に響く方法が必要だった。妻の深層心理というか、潜在意識に訴えるような方法・・・それはやはり<歌>だと思いました。聴覚が一番可能性があるのだろうから、“本気で伝えたい”という気持ちも<歌>にすることで妻に伝わるのではないか。
「生きると決めたのは君だ。生きると決めたことは、その苦難の道を歩いて行くと言うことなんだ。だけど一人だけにさせはしない。一緒に歩いていこう。」・・・というメッセージを歌にして、50歳の誕生日プレゼントとして妻へ届けよう。印象的であればあるほど、しっかりと心の奥底へメッセージは届くだろうと思いました。

この頃、塩入俊哉さんのソロアルバム 「Tokyo 3a.m.」が気に入っていてよく聴いていました。塩入さんの音楽には、大きなテーマとして「癒し」ということがしっかりと音につまっているので、妻にもこのアルバムを聴かせたりしていました。ある夜、妻を見舞い、目の前に顔を近づけて話をするのですが、当時の妻の目は、焦点がどこに合っているのかがわからない状態でした。その時に「君のその瞳、何をみているのかな?」って思った。「僕はいつも君を見ているのに、君の目はどこを見ているのかわからない。。。」そんな思いのまま病院を出て、iPodで塩入さんのアルバム「Tokyo 3a.m.」を聴いきながら自由が丘へ向かった。たまたま「ある夏の午后に」というピアノ曲を聴いているときに、「君のその瞳、何をみてるのかな?」・・・というフレーズがメロディーにリンクしてしまいました。「あぁ、これ、僕が伝えたい気持ちにぴったりだなぁ。」と感じた瞬間でした。このまま伝えたいメッセージをこのメロディーにのせてみたいと、僕の頭の中では自然と詩を作り始めていました。電車の中で作り始めて、自宅そばの駅についてから、ホームのベンチで出来上がるまで座っていました。あともう少しなのに、最後のワンフレーズがどうも見つからなかったのです。ベンチに座り、そこまでの4ヶ月を思いおこしていたのですが、妻が倒れてから、ずっと僕は涙が乾かない、そんな4ヶ月だったなと思いました。その時に、「涙は希望へ繋がる“夢の雫”だったんだな。僕だけではなくて、妻も心の中で泣き続けていただろう、息子たちも、こらえきれない日々があっただろう。そのすべての涙は“夢の雫”だったんだな。」と気がつきました。すっと腑に落ちるように、この言葉がタイトルとなり、歌詞の中に自然にすっぽりと着地しました。

このメロディーはとても美しいが、音域も広く、歌うには難しいメロディーだ。電車の中で詩を思い浮かべながら、いつの間にかイメージは白井貴子さんになっていました。自分の言葉として「虹」という言葉を使うのは気恥ずかしいのですが、貴子さんをイメージすると自然と「虹色」という言葉が使える。歌詞はとても面白い習性があり、歌う人がいてそのイメージによって、使える言葉が変わります。「夢の雫」はメロディーも含めて妖精的というか中性的なイメージで、白井貴子さんに歌ってもらいたいと思いました。この難しいメロディーも、彼女なら綺麗に歌いきってくれるだろう。突然のお願いごとにびっくりするでしょうが、必要性に迫られていた僕は、貴子さんへメールをしました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「夢の雫」

君のその瞳 何を見てるのかな?
僕はそばにいて 君を見てる
話したい事が 沢山あるでしょう?
君の唇が ほら動いた

声は・・・今は出ないよ
それでも生きるって君は決めたね
遠くて険しい道だよ
辿り着くまで涙も乾かない道でしょう
二人手をとって今歩き出したよ
こぼれた涙は夢の雫

いつか二人で もう一度暮らそう
僕につかまり一緒に歩こう
いつか僕らの涙は虹色に輝くさ
君のその瞳 夢を見つめている
僕は手をとって君と歩く
君と歩く
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<白井貴子さんからのメール、抜粋> 2010年6月4日11:47

曲はまだ聞けてませんが、
勿論、私でよければ、是非歌わせてください!

毎日、どんな動きをされているんでしょうか?
いつでもご連絡ください。
奥様とまた再びお話できる日が来ること、
心よりお祈りしています!

白井貴子

とても嬉しい返信が来ました。
曲を聴けていないのは、PCとの相性なのか?音源データがうまく開かないという事でした。それでもすぐに快諾してくれて、本当に嬉しかった。貴子さんと連絡をとったのも、とても久しぶりでしたので、突然このような依頼に失礼にならないか?心配しながら、メールしたのですが、愛情たっぷりで思いのこもった返信をいただきました。抜粋した文章にも表れていますが、貴子さんの迷いのない勢いというか、エネルギーを感じました。

やはり、僕たちは恵まれている。このプロジェクトは、妻のためだけに立ち上がったプロジェクトでした。これで8月に50才を迎える妻に「夢の雫」をプレゼントすることが出来る。一緒に生きていく宣言を歌に託して、妻に届けることが出来る。貴子さんに歌ってもらうことで、メロディーの魅力を最大限に引き出すことができるだろう。なんて贅沢なプライベートプロジェクトだろう(笑) それにしても、メロディーも聴いていないのに、この即答はすごい。本当に嬉しい。しかし、メロディーも詩も、僕の中では自然と貴子さんをイメージしていたわけだから、いい作品が作れると思いました。せっかくならば、塩入さんのピアノで、貴子さんの歌を録音してみたい!素敵な誕生日プレゼントが出来そうだ。

未分類 | 21:06:54 | トラックバック(0) | コメント(0)
ベッドサイドからの景色(8)
<笑い話>・・・2010年4月下旬頃
とても恥ずかしい、当時のことを思い出しました。
人間は混乱しているときに、それが混乱していると自覚できないのです。
凍り付くような衝撃のラストシーンです。

奥沢病院に転院が決まる前のことです。転院先を必死にさがしながら、医療制度や法律の壁にぶち当たり、このままで転院したときの入院費はおそらく月額40万となるようだとわかった時、これは数ヶ月で支払いきれなくなるかもしれないという不安がありました。、、、どうすればいいのだろうか?と真剣に考えていて 「そうだ!離婚すればいいんだ!」と閃きました。・・・これ、今思えば、大バカな話ですが、当時の僕にとっては「閃き=いいアイデア」だと思ったのです。

離婚が成立したら、妻は無職の障害者だから生活保護が適応されるのではないか? そうすればスムーズに病院に入れるのではないか? 妻が安定的に病院にいれる環境が手にはいるのなら、どんな方法でもいい。それなら、夫婦でいる必要などない。・・・と考えて、Webで無料離婚相談を探し電話してみたことがあります。

「あのぉ、何て言うか、離婚したいわけではないのですがぁ、、、、そのー、離婚についての条件などを知りたいのですが・・・」
「はぁ?」
「いや、今、説明するから話を聞いてください、実はこういうことなんです、、、etc」と色々事情説明した上で、、、「そういう訳で、入院費の軽減のために離婚したいのですが、これは法律的に出来ることなのでしょうか?」
相談員の方は、ちゃんと聞くだけ聞いておていから、「いやぁ、、それはですねぇ・・・。そうですね、法律の問題は弁護士に訊いたほうがいいですね。弁護士を紹介しましょうか?」
「あれ? 無料相談っていうので、電話してみたのですが、ここは弁護士さんではないのですか?」
「こちらは “心の相談” ですから。。。。」
「・・・・・」


<そばと涙>・・・2010年6月前半のある日曜日
転院してしばらくした日曜日、いつものように奥沢病院へ行き、帰りがけに自由が丘の立ち食いそば(正確にいえば、カウンターに椅子が置いてあるから、すわれる。)でざるそばを食べた。このそばはとても美味しい。この日は休日だったこともあり、混んでいた。70を過ぎた老夫婦が入ってきて、別々に空いているカウンター席に座った。僕のとなりにおばあちゃんが座ったので、「席、かわりましょうか?」と声をかけた。そうしたら 「大丈夫です。新婚じゃあるまいし(笑)」と気持ちよく断られた。70歳すぎで、こんなシャレた台詞で対応とは、センスがいいなと思った。その時ついじーんと来てしまった。「夫婦っていいな。うらやましいな。僕らも普通にこんなふうになりたかったな。」こみ上げてきたものを胸で止めて、涙目でそばを食べた。端から見れば、へんなおじさんだ。

この頃は油断すると、すぐに涙がまぶたからはみ出そうとしていた。
当時NHKの朝の連続ドラマ「ゲゲゲの女房」を見ていても、夫婦を見ると涙がやってきた(笑)はたして妻は幸せだったのだろうか?と急に不安になる。倒れる前は体調も悪かったのではないか?僕はまったく気がつかなかったけど、本当は苦しかったのかな?一人で悩みを抱え込んでいたことはないか? 今は無表情の目をみても、どこに焦点があっているのかがわからない。目の前に顔を近づけても、ぼくの目を見ているように感じなかった。何も答えてくれないから、ますます不安になる。だから一生懸命、毎日足をマッサージしているのかな? 答えてくれる日がくるように。


<整体とメッセージ>・・・・2010年6月上旬
友人で、音楽関係の会社の女性社長が、僕の事情を知り、整体をプレゼントしてくれた。僕の体調がボロボロだろうと心配してくれたのです。本当に嬉しいことです。身体を楽にする以上に、その「思い」にずいぶんと助けられました。

2010年6月のある日、僕は整体と聞いていたので、勝手にボキボキ!ガキガキッ!っていう男性だと思い込んでいました。ところが、その社長が連れて来たのは、可愛い女性でした。そして、その美人さんは、整体をする相手を女性だと思い込んで、その場所に来たようでした(笑)

彼女とはお互い、「何でだろうね?」と笑いながらの出会いとなりました。妻が倒れて約4ヶ月がたち、疲れも出ているのも確かだったので、整体はありがたかった。その上、かわいくて若い女性だったから、僕はますます機嫌がよくなり、すでに元気になったようだった(笑) 彼女は約1時間、足首、ひざ、腕、首、腹、などに手を置いて、エネルギーを入れてくれているようだった。その頃、疲れが溜まると気功治療も時々受けていたので、意味としてはきっとそのようなことだろうと思った。気を通していっているような感覚だった。下丹田にエネルギーが充実したような感覚を覚える。彼女は、或る日ハワイ島で朝日を見たときに開眼し、空気中のエネルギーが見えるようになってしまったそうだ。それ以来、こういうことが出来るようになったと話してくれた。普段は九州に住んでいるが、たまたま整体をするために東京に来ていて、そのことを知っていた社長が空いているスケジュールに入れ込んでくれたというわけだ。

一時間後、「よし、バッチリ!終わりました、OKですよ西嶋さん。」
「ありがとうございました。」「ハイ、ではこれからメッセージをお伝えします!」
「えっ?」・・・・というわけで、ここからが本題となります。

彼女によると、僕と妻は、前世では逆のことを経験していたのだそうです。ようするに、その前世では、僕が42歳で倒れて、妻が介護の人生を送ったそうです。しかし、この時妻はその辛い人生を受け入れたくなかったようです。現実を受け入れるには若すぎたのでしょう。とても辛かったそうですが、よく頑張ってくれて、僕は車椅子にのれるまで回復して、海辺の町で余生をすごし、人生を互いにまっとうして終えたということでした。それで、今回の人生は役割を逆にして経験をすることに決めて生まれて来ているということでした。これが本当かどうかは、今回の人生が終わってからでないと、どちらにしても分からないことです。しかし、この時この話を聞く前から、これは自分たちのミッションではないのか?という漠然とした気持ちもあったため、すんなりと受け入れることが出来ました。また、以前(5)の<ちょっと変な話し>で書いたように、受け入れることによるデメリットは全くないのでで、受け入れて、そう考えるのもいいなと思いました。自分たちで乗り越えられると思ったから計画したミッションであれば、乗り越えられることは決まっている。しっかりと怠けずに生きていけば、妻は必ず回復していくだろう。そう信じて、あせらず、時を待ちながら生きていこう。そう思った。

彼女はこんなことも言っていた。「西嶋さん。文章かくの上手じゃないですか? 前世では、学者さんでいつも研究発表のための論文を書いていました。なので、文書を書くことが上手なはずなんです。」 当時僕が書いた文章といえば、杉田二郎さんの3枚組ベスト「愛する人へ」 http://store.shopping.yahoo.co.jp/yamano/4107010483.html のライナーノーツ。Maochicaというピアニスト二人のユニットのベストアルバム http://www.maochica.com/whats_new.htm  のライナーノーツを書いたことがあったのですが、それだけでした。それ以前も特別にものを書いたことはありませんでした。しかし、これらのライナーを書いてい感じたことがあります。書く事によって<自分の人生と、人との繋がり、また音楽との繋がり>が確認できて、自分の思想を再確認することができました。自分自身がこういうことを考えている人なんだと、自分の文章を見て思った(笑)という経験をしました。この経験を通じ、たまに日記を書いてみたり、感情を見つめ直す為に、文章にしてみたりすることがありました。しかし、表現が稚拙で、文章が上手だと感じた事はありません。もしも前世の自分が上手であればそれは羨ましいものだと思いました。

彼女が不思議なことを言った。

「整体している間中、女性がいて、誰かな?って最初思っていたの。西嶋さんと話をしていて、それが奥さんだって途中でわかりました。それで、奥様からのメッセージです。まず、西嶋さんの体調を崩さないように気をつけてほしいと言っています。自分はもう前世で経験済みですから、介護の大変さをよく知っています。なので、無理をしすぎるとすべてのバランスが崩れるので、第一が自分、そして第二が奥さんという順番をしっかりと守ってください。そして最後に一つ、“香り”がほしいと言っています。よく考えてみてください。生活の中にあって奥さんの好きな香りです。それを持ってきてほしいと言っています。これがきっかけになって、リハビリが大きく前進します。さぁ、何でしょう?心当たりがありますか?」

「妻のところには、香りにより、脳を刺激しようと思って毎日、彼女のすきなラベンダーをはじめとした数種類のエッセンシャルオイルを枕やパジャマの襟元に振りかけています。なので、香りは足りているはずですが・・・・」

「うーん。おかしいですね。食べものかもしれないし、何か好きなものです。考えてみてください。」

そこまでわかるなら、香りの内容も教えてくれればいいのに。なんで謎かけなんだよ、意地悪だなぁ(笑)・・・・と思ったりしながら、この日の整体は終わりました。

翌日から、妻の顔を見るたびに、「何がほしいの? ねぇ、香りって何?」って聞いても、やっぱり答えてはくれません。さてさて、思いつくのは焼きうどんソース味の香りが好きだったということくらいだ。たこ焼き?お好み焼き?・・・おたふくソースってこと?ふーん、わからん。入院しているところは6人部屋。焼きうどんをもっていくのは、非常識だろう。さて、どうしよう?

6月12日(土) 仕事へ行く前に、まず病院へ向かった。直接行くときは自由が丘で降りて歩く。駅を降りて病院へ向かう途中にスターバックスがある。その前を通ったときに、確信とともの閃いた。「これだ!コーヒーだ!」そしてすぐに、今日のコーヒーのトールサイズをもって病院へいった。

「清美! ほら買ってきたよ! これでしょ? コーヒーでしょ? を買ってきたよ!」
・・・と言いながら、鼻先に蓋の飲み口の穴を近づける。

すごい反応だ! 目を大きく見開いた! そして、なんとコーヒーの香りの方にグイッと首を回した! それも、2回もだ! こんなに首を動かしたのは始めて見た!  これはすごい!! きっと妻は 「よくわかったね! 正解!」 と褒めてくれているのかもしれないと思った。確かにすごい反応だ。嗜好物とはこういうことなのだろう。そう言えば、朝起きればまずコーヒーだった。しかし、整体をしてくれた彼女の言葉がなければ、絶対に気づくことは出来なかっただろう。看護師さんに頼み、脱脂綿にコーヒーを浸して、手袋をつけて、口の中に入れ、味わってもらうことにした。液体をたくさん口の中に入れるわけにはいかない。肺に入ってしまうとよくないからだ。しかし、脱脂綿に少し浸して口の中で風味程度を味わってもらうくらいなら大丈夫だろう。こうして妻は4ヶ月ぶりのコーヒーを味わったのだ!たしかに、これがキッカケになって動きが出てくると伝えられたメッセージ通りのことが目の前で起こった。ほらほら、もう決めていることだけど、一般的には奇跡と呼ばれているらしいことが僕たちに近づいてきているよ!あせらず、ゆっくり、自分の力を信じて、リハビリをしていこう!明日はラテにしてみよう!
それから、毎日、スターバックスによってから病院へ通いました。

未分類 | 08:57:03 | トラックバック(0) | コメント(3)
いつもの散歩道
IMG_1437.jpg

この2年間、よくここに散歩に来た。いくつかの区画で、色々な野菜が作られていた畑だった。ある日、全部収穫されていたので、「あれ?こんないっぺんに変だなぁ」と思っていたら、整地されていた。僕らのいきつけの散歩場所がひとつなくなっちゃったね。「無常」・・・常なるものは無しだ。けど、これは絶え間なく変化しているのが、この世界だということですから、空しいとかいう意味じゃないからね。そもそも「空」は、空っぽという意味じゃないよ。僕らも昔は居なかった。色々なご縁の繋がりで、ぼくらは今ここに居るわけだけど、そのうちまたこんな風に土に返るんだよ。そう言う意味では、今、この経験こそが僕らの人生そのものだよ。・・・などと唯識的な会話をしながら、散歩した。さぁ、難しいことばかり言っていないで、特訓しよう!

未分類 | 23:09:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
ベッドサイドからの景色(7)
<転院、そして新たなスタート>
2010年5月24日(月)に奥沢病院へ転院した。救急車と同じ仕様の車をチャーターして、痰の吸引もできる方がついてもらい、転院するのだが、この車を頼むだけで5万かかったのにはびっくりした。これから転院は増える予定だから、これも予算にいれておかなくてはならないと思いました。

転院してすぐにわかりましたが、奥沢病院は人気のある病院です。そして変な言い方ですが“活気”のある病院でした。こんな病院は初めてです。病気の人が多くいるのが病院なので、よく聞く話ですが、誰もが病院はいるだけでとても疲れると言いますね。それは病の人の「気」が蔓延しているわけだから当たり前なのです。だから「病気」なのでしょうね。

しかし奥沢病院は、スタッフ全員の「やる気」があふれていて、エネルギーが溢れているのです!病院というのは「気」を吸い取られてしまうような場合が多いのですが、ここはエネルギーが補充できるかもしれない(笑) そのくらい「やる気」が溢れているのです。つくづく、僕たちは恵まれていると思いました。2月13日に地獄にダイブし、生き残ったものの“転院問題”で挫折しそうになりながらも、ついに次なるステップへと進むことが出来たと実感しました。死ぬまで現状維持としてではなく、辛く険しく長い道のりだとしても、希望の光に向かって、ここからが僕たちは人生を再スタート出来るのです。その場所がここ、奥沢病院なのでした。さぁ、これから普通に奇跡を起こしに行こう!松村先生をはじめ、奥沢病院のやる気まんまんのスタッフのみなさんが、僕たちのかけがえのない応援団になってくれる。そして、新しい生活がはじまりました。

時は流れ、変化しつづけるのが僕たちの人生です。これは「無常」です。「常なるものは無い」のです。選択しなくてはならない事柄は、どんどん目前にやってきます。未来は予測できないけど、あの時、自分の心の底から聞こえる声を信じて行動を起こしたことが、ここに繋がった。松村先生との「ご縁」に感謝しました。同時に、あの時に諦めていたら、前の病院から薦められた療養病院へ自動的に行っていたので、この時の別れ道は、とても大きな別れ道だったのだと震えました。この経験は、今後も絶対にあきらめないことが大切なのだと教えてくれました。

5月25日早朝、松村先生へお礼のメールをしました。早速返信をいただき、そこには僕たちにとって、飛び上がりたいくらいに希望の光をみるような、うれしい文章がありました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2010年5月26日am7:05
西嶋様
おはようございます。メールをありがとうございます。昨日は外来中でゆっくりとお話する時間も作れず失礼しました。清美様を昨日診察させて頂きました。医学的に証明することは難しいですが、脳幹部出血で身体は動かないが、意識はしっかりとあると思います。リハビリの道は長く険しいですが、一歩一歩進んでいきましょう。本日(火曜日)神経内科の専門医にも今後の治療方針について相談してみます。金曜日午後-夕方か、土曜日午前にお話しする時間は在りますでしょうか?

当院は院長はたいしたことないのですが(笑)、有り難い事にスタッフは素晴らしい人が集まっています。しかし、至らないことも多々あるかと思います。どうぞその節には何なりとお伝えください。患者さんを中心に、我々病院スタッフとご家族が十分にコミュニケーションをとることが大切だと思います。どうぞよろしく。 松村 拝
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

このメールを見て涙がこぼれた。「意識はしっかりとあると思います。」・・・このことを、お医者さんから認めてもらえることは、僕たちにとって、本当に救いであり、希望の光でした。このメールを見た時に、僕は叫びたいくらいの気持ちでした。もう忘れちゃったけど、実際メールを見て「うぉー!」って叫んでいたのかもしれません(笑)そう思ってくれている方が妻の担当医であるという事実が家族全員の心を支えてくれました。僕はすぐに妻のかかわりのある人たちすべてに連絡をしました。「意識があると思う」ことは、すべてにおいて意味を持ちます。リハビリの意味が明確に進むべき方向を示し、まったく変ってくるのです。<意識がないから、リハビリの必要がない> → <回復へ向けて努力していきましょう>へ変化した瞬間です。

最初の病院では、意識がないことを前提としていました。それはきっと、医学的証明ができないことは、言わない。それは予リスクコントロールの過剰反応ではないかと思います。現代は色々な面で自主規制が過剰だと感じますが、病院の先生がネガティブだと患者はもっと敏感に大きな不安を感るものです。もちろん、口先だけでいい事を言うわけにはいかない、責任ある立場としての辛さもあると思いますが、病気の半分は精神(気持ち)も関係すると思うのです。その気持ちを突き落としてしまっては、免疫力を衰えさせる原因にもなるように思います。

2005年の春だったと思うのですが、妻の癌手術を終えて5年経ったときに、一緒に聖マリアンナ病院へ行きました。これで、完治と言ってもらって、妻の不安を払拭したかったのです。妻は自分では恐くて質問できないと言っていたので、そこで僕が「先生、手術から5年が経ちました。これで今回の癌は完治ということですよね?」と確認した。先生は「いやぁ、西嶋さん、乳癌はねー、10年経たないとそう言えないんですよー。」とあっさり言われました。僕は内心「医学的な決まりなのかな?しかし、年数はどうやって決めるんだろうな。そーかもしれないけど、5年と言っておけばいいじゃないか。万が一再発症したら、それは新しい癌だと捉え、新たな闘いが始まるというだけだ。まずは“完治した”という喜びが、免疫を高めるのではないか? リスクコントロールばかりで、これじゃ勇気づけることができないじゃないか! お医者さんが背中をポンとたたいて「大丈夫!」と言ってあげることが、どれだけ患者の気持ちを救うことになるか知らないのか? それで治っちゃう人だっているかもしれないのに・・・・」 と思いました。もちろん、これは患者の家族側の勝手な思いでありますが、そう思いました。

そんな経験も過去にありましたので「西嶋さんの奥さんはしっかり意識があると思います。」と言ってくれることの意味を、松村先生はしっかり知っている方だと思いました。こんなに家族に勇気を与えてくれることはない。そうして僕らはもっともっと、前よりさらにそのつもりで妻に向き合えるのだ。

その後、松村先生に紹介していただき、先生の患者さんである、10年前に脳幹出血で倒れた方と会い、お話を聞かせてもらったことがあります。そのご夫婦はちょうど僕たちと同じ年齢のときに奥さんが倒れ、ご主人が献身的に介護しつづけてい、10年が経ったという夫婦でした。すぐに在宅で生活をするという選択をし、大変な毎日を生抜いてきました。ご主人は明るく、お話をしている間中、笑顔をたやしませんでした。この奥様もそうだったようですが、一番つらいのは、脳では判断出来ているのに、表現がで出来ないため、周りから“意識がない”と思われていた時期があり、その時期がいちばん辛かったということでした。

このことは、色々と転院先を探しまわっていたときに、お会いしたあるお医者さんからも聞いたことがありました。その先生のお母様が同じ脳幹出血で倒れた時の話をしてくれました。倒れてから12年間生きたそうですが、意志の伝達が出来るところまで持ち直したそうですが、全く同様に、理解してもらえなかった時期がいちばん苦しかったと話していたそうです。意識をあると理解してもらえるかどうか?それは、まわりから自分が<人間>として認めてもらっているかどうか?の差なのでしょう。

僕たちは幸せです。上記のおふたりは、2年以上意識不明だと思われていた時期があるのです。しかし、妻は3ヶ月半で、きっと意識はあると理解してアプローチしてくれる先生と病院にめぐりあえたのです!これがどれだけ、幸せなことか、言葉では表せません。きっと妻も同じ気持ちだろうと思いました。そして、この活気あるれる病室は、看護師さんたちも声を掛け合いながら、なんというか、にぎやかな病室なんです(笑)きっと、静かなところより、この活気のある、言葉が飛び交う病室のムードは、妻の意識に刺激を与えつづけてくれる環境になることだろうと思いました。もちろん、看護師さんたちも、当たり前のこととして、妻は意識ある患者だとしてアプローチしてくれます。声をかけてくれて、説明をしてからアプローチをする。きっと妻は、意識があると理解されていることが、とても嬉しかったことだろうと思います。一つ間違うと“物を扱う”ようなやり方になりかねない。よく、反応できない患者を前に、かなりヤバイ話をしている場面に遭遇することがある。あぁ、これ聞こえているのだから、ちょっと表現がなぁ・・・などと、思う時があります。この違いは、妻にとってはとてもとても大きな違いだと思います。感謝!

未分類 | 09:01:53 | トラックバック(0) | コメント(1)
ベッドサイドからの景色(6)
<ベッドサイド 〜音楽と気〜>
2010年4月18日、因幡晃さんのレコーディングがはじまりました。当時の僕の仕事は、アイドルタレントのコンサートグッズの制作などをするセクションの責任者でした。なので、普通であれば僕がかかわることは出来ないプログラムのはずでした。しかし、因幡さんのデビュー35周年という記念アルバムの制作ということで、ディレクターとしての参加依頼をいただき、当時の仕事と調整をしながらレコーディングに参加させていただくことになりました。この時期、僕の身体は悲鳴をあげていた頃でしたので、因幡さんに関わらせていただくことによって、音楽に集中できる時間を作れたことは、僕の救いになりました。いつも、数秒ごとに考えがクルクル変わる精神状態でしたが、因幡さんの音楽に触れている時間は、ブレることがなく、妻のことを忘れて集中することも出来ました。

企画も立てさせてもらったのですが、このアルバムのレコーディングは、思い切った録音方法を採用することにしました。やり直しが出来ない環境をつくり、すべて一発録音をするという方法です。ただ、それだけのことですが、テクノロジーの進化により、マルチレコーディングが確立してからは、わざわざこのリスキーな録音方法をとる人は誰もいなくなってしまいました。やり直しをすることが当たり前の録音に違和感を感じ始めたのはずいぶん前でしたが、僕自身も恐くて、なかなか実行する勇気がもてませんでした。いわゆる“本物の歌手”でしか成立しない方法ですが、因幡さんなら絶対できると思いました。きっと、このチャンスにやらなければ一生選択できない録音方法かもしれないと思っていました。

音楽は「時間」と「空間」を共有するためのものとして生まれたのだと思います。その共有空間に発生した空気の振動とエネルギーを録音媒体(現代ではハードディスクの場合が多いです)に取り込み、定着させるのが僕らスタッフの仕事だと考えていました。(もちろん、このことを理解している上で、それをぶち壊すというアプローチなど、様々あるのですが・・・)この録音方法は結果として、竹刀ではなく真剣でわたりあうセッションとなり、その場のピリッとした空気感、緊張感、までを録音することに成功しました。やはり、ここにも「気」が関わってきます。因幡さんと参加ミュージシャン全員の気合を録音、記録することができ、名盤を生み出す現場に参加できたことは、この頃の僕の精神状態をとても安定させてくれました。

妻に書いた「ベッドサイド」は、レコーディング初日に録音されました。耳だけは聴こえているであろうと思っていたので、まずは妻に聴かせたいという気持ちがあり、アルバムに収録する予定にはなっていませんでした。レコーディングの合間のどこかで、みなさんの協力をいただき、録音しようと思っていました。アルバムタイトル曲「まん丸の蒼い月」因幡さんの代表曲「わかって下さい」と順調にレコーディングが進み、3曲目に「ベッドサイド」をやってみようということになりました。なかなかタフなレコーディングでしたので、この緊張感の中で一日3曲レコーディングすることは、大変なことでした。この曲は、子守唄のようなやさしさをイメージしていたので、エレキピアノ(フェンダーローズ)で録音してみたいと思っていました。シンセでは出ない、アナログのやさしさとエレピの音のゆらぎは、とても心地よい世界を生み出せると考えました。音のバランスを確認するために、1コーラスリハーサルをしてもらい、とてもいいムードでしたので、この流れですぐレコーディングを開始しました。ところがなんと演奏途中でローズのご機嫌が悪くなり、ノイズを発するようになってしましました。エレピが壊れてしまったのです。エレピを弾いていた佐藤準さんも、因幡さんも、3曲目ということもあり、かなり疲れていました。これはガックリと、その場の空気がピタッと止まってしまいました。僕はここで時間をかけてしまっては気持ちが伝わらなくなると思い、「これは神様がピアノでやりなさいと言っているのでしょう。準さんピアノでやってみてもらっていいですか?」と言って、1回だけトライしてもらうことにしました。これで、いい空気が流れなかったら、この録音はもう出来ないだろうなと思っていました。準さんも「エレピをイメージして作ってきたフレーズだから、どうかなぁ?」 という疑問をもちながらも、「まぁ、やってみましょう!」と快くムードを立て直してくれました。因幡さんもそれに呼応したように、「さぁ、歌おう!」ということになりました。普通なら「今日はここでやめましょう」というところだったと思います。しかし、みな妻を知っていることもあり、きっと妻のためになんとかしたい、聴かせてたい、、という気持ちがあったのだろうと思います。この最後のワンテイクがすばらしいテイクとなりました。そんな経緯で、このアルバムに「ベッドサイド」が収録されることになりました。

未分類 | 13:30:04 | トラックバック(0) | コメント(1)
ベッドサイドからの景色(5)
松村先生(奥沢病院院長)は、診療点数制度について、素人の僕にもわかるように教えてくれた。それは、妻を受け入れることは出来るが、やはりいつまでもというわけにはいかない。それが、現在の医療保険制度であり、点数制度だということだった。なんとなく、法律がそうなったなぁ・・・程度しか知らなかったので、実際にはどんな仕組みかは知らなかった。

入院するためには入院する理由が必要だ。それが病名である。そしてその病名に点数が付き、それが患者の持ち点となる。そしてその得点は日数経過により減っていく。例えば肺炎なら2週間で持ち点がなくなる。そうすると、病院は保健からお金がもらえなくなる。患者さんの支払い金額(だいたい30%)だけの入金となり、病院にとって赤字の原因となる。こんなイメージだったと思う。

病院に入院したことがある人はわかるだろうが、お医者さんの一日はビックリするほどタフな仕事だ。看護師さんたちは、大変なシフトをやりくりし、大勢のスタッフで夜も寝ずに働いてくれている。この仕組みを維持できないと、病院機能として問題がでる。しかし、得点のない人が長期入院していたら、お金は入って来ない。ようするに経営ができなくなるのだ。確かに色々な弊害があったのだろう。お年寄りが居心地がいいということで、出て行ってくれないなどの一部の理由があったようだ。そこで、病院が患者を追い出す仕組みを保健制度として考え出したのではないかな。たしかに考えた人は頭がいい人だろうけど、あまり好きじゃない方法だ。

妻もまずは1ヶ月、長くても1ヶ月半が限界だという約束で入院させてもらった。ここからは、転院を繰り返しながら、病状が安定したところで、療養型へ移るといったプログラムを組んでいこうと、松村先生は計画的な話をしてくれた。その上この先生がすごいのは、グループ病院との横の連携をとり、転院先の面倒をしっかりみてくれたのだ。患者の家族にとって、この転院問題のサポートは、本当に心底助かるのだ。僕らにとって、どれだけ心が安定するサポートであることか。出会えたことに感謝をし、とにかく今後は、先生が決めてくれた通りに動こうと思った。

点数制度の話をしてくれて、1ヶ月半が限界と言っていたのですが、実際にはさらなる転院先のベッドが空かずに、結局3ヶ月入院させてもらった。入院させてもらい嬉しいやら、申し訳ないやら、奥沢病院には持ち点ゼロ患者として迷惑をかけることになった。

松村先生と話をしたときに、初めてマッサージの大切さを知りました。先生は筋肉拘縮を防ぐためのリハビリとしてのマッサージを何故行っていないのか?不思議だと話していました。最初に入院していた病院では3ヶ月以上、マッサージリハビリはしていませんでした。それは、脳幹出血の患者にリハビリをする必要はないという考えが、その病院にはあったのだろうと思います。急性期のための病院ですから、リハビリの必要がある場合は、他に移ってから、、ということだったのかもしれません。奥沢病院に転院する前に、すでに尖足になってしまいましたが、今思えばとても残念なことです。僕が知識があれば、交渉も出来たでしょうし、自分でももっとマッサージに力を入れることが出来たように思います。

<「縁起」と「ちょっとへんな話」>
最近、僕は「唯識」という仏教の考え方を勉強しています。5世紀頃に日本に入ってきたこの考え方は、深層心理学とでもいえる考え方です。フロイドやユングといった人たちの、とんでもない遥か昔に、すでに仏教では潜在意識に目を向けていた訳です。僕も知らなかったのですが、奈良の興福寺、京都の清水寺なども、「唯識」を伝えているお寺なのだそうです。それをここで掘り下げるわけには行きませんが、簡単に言えば「人間も自然もすべては、その繋がりの中で起こっているものである」ということです。当たり前ですが、一人だけで何の関わりもなく生きている人はいない。この世にいなかった僕は、長い祖先の出会いの連続の中で今はここいますが、そのうちまたいなくなります。すべては「縁」で起こっているわけです。

いつもこの「縁」は、確実なタイミングで必要な時に現れるようにプログラムされている「出会い」があるのではないのか?と思うことがあります。その「出会い」は、何故かそうなるように仕組まれています。今、思い起こすと不思議なことがたくさんあります。書ききることは出来ませんが、奥沢病院の松村先生との出会いはその一つです。今も繋がりながら、お世話になっています。

妻との出会いも考えると面白いことの連続なのですが、今回のテーマとそれるので割愛します。
先にも書いた、僕らの第一回目の人生絶望期、この頃から僕の人生観は大きく変わり始めることになります。人は誰も、命の危機に直面すると、藁をもすがる気持ちになったりもしますが、それと同時に「僕らの幸せってなんだろう?」とか「生きるって何だろう?」とか考えるようになります。もちろん、これまでも考えて来てはいるのですが、より深く考えるようになっていったのが、この時期です。僕ら=僕、妻&子供たちは、妻の癌と命の危機に正面から向き合って、このことを皆で経験するために一緒にいるかもしれないと思うようになったのもこの時期でした。

よく昔のテレビドラマの台詞で、親に向かって「生んでくれと頼んだ覚えはない」というような捨て台詞がありますが、僕の場合は子供たちに「お前らが生まれて来たくて、僕たちの元に生まれてきたんだ」と根拠もなく言っていました。何故か知りませんが本気で生理的にそう思っていました。しかし妻が癌になってから、色々な本を読むことになるのですが、その中に、ブライアン L ワイスの「前世療法」というのがあり、これがまさに、生まれてくるのは自分で決めて生まれてくる、と言っているわけです。この人は、マイアミの大学の精神医学博士で、いわゆるただのスピリチュアル系という人でないので、冷静な表現をつかって、慎重に文章を書いている感じがしました。これは面白い本で気に入りました。僕はこの考え方に今も賛成しています。ようするに、死んでみないとわかりませんが、この考え方で生きることは、生きている上ではメリットしかないのです。死んでみてまだ魂があれば「ほら見た事か、本当だったじゃないか!」となるわけですが、死んでそれでおしまいだったら「思う」事もないのですから、それでいいわけです。生きる上で直面するトラブルに、意義を見いだし、しっかりやりぬくプログラムとして捉えたほうがいいと、この頃、様々な本を読んで思うようになりました。これも、一つの「出会い」です。

妻の癌の時の話ですが、このように考えていくと、きっと僕にも何らかの「役割」があると感じていました。抗がん剤が利かなくなり、癌が押さえ込めなくなった段階で、乳房の切除手術を行いました。大きい癌だったので、左乳房の筋肉まで切除することになり、切除範囲は広範囲に及ぶという説明がありました。当時のニュースで肺の摘出手術で、癌でない正常な肺を間違って摘出した事故(?)などが報道されている時期で、妻はかなりネガティブになっていました。なんでも恐いのです。このイージーミスが絶対に起こらないように、僕は主治医がいるチームで手術してもらうように、毎回、診察に立ち会ってお願いをしていました。主治医は「うちの病院には優秀な執刀医がおり、チームが4チームあるから、それはそのときのシフトによる」と言うのですが、僕は主治医がチーム編成の中に入っていないとダメだとダダをこねました。いろいろな切り口で話をして、無理矢理それを理解してもらいました。患者というのは、心の問題も大きいのです。主治医との信頼関係こそが、妻の安心につながると信じて、主治医がその手術の場にいてくれることが僕たちには必要だったのです。ここに辿りつくことも僕の「役目」だと感じていました。

手術当日の説明で、切除範囲が広範囲にわたるので、皮膚移植の場所が、通常では股から皮膚をとるのですが、面積がとりきれないため、太ももから広範囲の皮膚を切り出すことになる。これが手術後大変痛みが伴う・・・という説明がありました。先生に太ももの処置はどうするのか?訊いてみると、オキシフルを塗るだけということでした。そりゃぁ、痛いはずです。その痕はケロイド状になるという説明もしていました。その瞬間、僕はリクエストをしました。「切除範囲面積によりますが、両方の股から皮膚を切り出したらいいのではないか?手間は増えるけど、そうしてもらえないか?」とお願いしました。主治医はちょっとムッとしたように感じました。「西嶋さん。それは、現場で決めさせていただけますか?」と一言。もちろん当たり前ですので「はい。もちろんです。しかし、先生、わかっておいて欲しい事があるんです。患者は、痛いより痛くないほうがいいんです。わかって下さい。痛いより、痛くないほうがいいんです!」と伝えました。すぐに妻は全身麻酔を打たれ、手術室へと入っていきました。たしか4時間の手術の予定でしたが予定の時間になっても出てきませんでした。何か起こったのではないか?とビクビクしていました。予定より1時間長くかかった手術室から、先生が出て来て、僕の顔を見るなり一言「西嶋さん。両方からやっておいたから。」・・と笑顔で言われました。ははぁーなるほど、太ももから切り出して、切り出した処置はオキシフル、その一枚は胸へ縫合するのも、周りをひと縫いすればいいのですが、両方の股からだと、右股から切り出して縫合、左股から切り出して縫合。切り出した左右の皮膚を合わせて胸へ縫合するということで、手間が通常の倍はかかったのだろう。それで手術時間が1時間延びていたのだ。手術直前にしっかりとお願いしておいてよかった!このおかげで、手術後の痛みはかなり軽くすんだ。「痛いより痛くないこと。」これが僕らの望みだ。僕はちゃんと自分の役目を果たせたような気分だった。こんな事も、ブライアン・L・ワイスの本との出会いが僕に「役割」を伝えてくれたように思えた。

この時期からたくさん、この手の本を読んだ。その中にエリザベス・キューブラー・ロスという人の本があります。「死ぬ瞬間」などの名著がたくさんありますが、それを読んでいた頃、妻と、もしも何か僕らに最悪のことが起こった時には、お互いに延命措置はやめようと決めていました。もちろん、そんな深刻に話し合ったわけではなく、本の内容の話をしているときに、そんな話になったことがあっただけです。誰だって同じだと思いますが、呼吸があり、心臓だけが動いているだけの人生を生きたくはないでしょう。この本を読んだ半年後に妻は倒れました。僕は人工呼吸器をつけないとすぐに決断していました。あの時、息子たちの同意がとれて、本当に良かったと思います。これも、本を通しての出会いでした。

その後、僕は「気功」との出会いがありました。僕は気功に通い、妻はサウナに通う。妻は癌治療の一環として2000年にデュープリンという薬で生理を止めていました。それで妻は40歳で更年期障害の症状が出始めます。また、生理を止める事によって、高血圧になっていたのですが、そのことを本人も、僕も気にしていませんでした。降圧剤も飲んでいませんでした。僕はたばこをやめていましたが、妻はやめませんでした。そう言えば、妻が癌の摘出手術を終え、集中治療室に2日間いて、一般病棟に戻って来た時、ベッドを訪ねると、そこにいない時がありました。作詞家の渡辺なつみさんがお見舞いに来てくれたので、ピックアップして連れていったとき、ベッドに姿がありませんでした。あれ?おかしいなぁ。まだ歩けないはずんだけど・・・と思いながら、もしかしたら!と思って、喫煙室へ行ってみると、妻はマイルドセブンをプハーっってやっていました。どうなの?癌だったんだよ君。どーなのよ?って思いながら、なつみさんと「流石きよみちゃん」と笑いました。

このストーリーを今僕はこんな風に思っています。
「僕らはこのことを経験するために生まれてきたようだ」と。僕は色々サポートをするための気づきを得る方向へいっている。妻はしっかりと命がけのプログラムとして、倒れるべくストーリーを進んでいったように思うのです。妻は高血圧、サウナ、たばこ。僕は、禁煙、気功、水泳です。ちゃんと経験をするべき方向へ、二人とも順調へ進んでいくわけです。

僕は元々、科学好きで、文学嫌いだった。文章なんて書くのは大嫌いだった。しかし、妻の癌と出会い、本をよく読むようになった。僕は文字を読むのが人一倍遅い。だから、とても時間がかかる。でも、妻と家族と生きる意味をしっかりと捉えるために、僕は色々な本を読んでみた。僕は小学生のころ、国語がきらいだった。それは、答えがファジーだからだった。感想文というのがあるけど、これで花丸をもらう事は簡単だった。どう書けば花丸がもらえるかがすぐわかっていた。だから僕はその通りに書かない。色々な方向からの思想があっていいはずだから、悪人に感情移入してみたりする。そうすると、三角だったりする。僕はこれが嫌いだった。小学二年のころの話である(笑)

とにかく、僕は妻と色々経験をするために一緒になったようだ。それをサポートしてくれるために駆けつけてくれたのが、息子たちなのだろう。サンキューね。そう言う意味では、僕らにとって息子たちは、この苦難を乗り越えるためのサポーターのようである。よく僕らを選んで来てくれた!となる。

どれが正解かはわからないけど、人間は考え方一つで変わる事はたしかだ。
今だから言えるが、僕は最初の病院のソーシャルワーカーが大嫌いだった。何と言うか、考えてくれていると思えない人で、主治医にこの人を変えてほしいとお願いしたことがあった。しかし、即答で「それは出来ません。」とキッパリと言われた。家に帰ってwebで調べてみると、その担当はソーシャルワーカーチームの最高責任者だった(笑)

今思えば、この人はとてもまじめで、どんなクレーマーも含めて、すべての対応を一種類の方法で行っていたのだろうと思う。すべてを、シャットアウトし、ルール通りに運営することが、彼の仕事だったのだろう。それも、今はわかる。しかし、今もっと大きく思うのは、彼がいてくれて、僕が頭に来ちゃって、結果、そのパワーによって奥沢病院へ行けた・・という考えもできるのです。こうなると、すでに彼は僕の恩人の一人となるのです。人間なんて勝手なものである。そして僕は幸せものだ。

未分類 | 01:24:18 | トラックバック(0) | コメント(1)
ベッドサイドからの景色(4)
当時の僕は、いつも気持ちがグルグルと回って、あれやこれやと思っているのだが、よく考えてみると、いったい何を考えていたのかがわからない、そんな毎日だった。身体が戦闘態勢に入っていて、血圧ががつんと上がっていたのだ。猫は猿を見つけた時、身体の血管を締め付けて脳に血液を送り、敏感な行動をとれる体勢をとるそうです。これと同じ状態だったようです。いつも眠りがあさくて、すぐ起きてしまう。妻の事、仕事の事、子供の事、etc.、色々と考える。しかしテーマが数秒ごとにコロコロ変わって、結局僕は何を考えていたのかがわからない。しかし、とにかく妻のもとに通い続け、刺激を与え続けなくてはならいと思っていた。そんな時にやって来たのが転院の問題だった。

<闘いのスタート ~転院先探し~>
当時の妻は発熱が頻繁で、それに軽い肺炎は起こすのは当たり前のようだった。嚥下は出来ず、痰の吸引は30分に一度というような状態だった。なので、最初の入院先の病院になるべくいたいから、転院先は積極的に探したくなかった。一度、病院のソーシャルワーカーから紹介された療養病床を専門とした病院へ見学に行ったが、話にならなかった。月額40万かかる療養病院を紹介する神経がわからなかった。それでもソーシャルワーカーは「西嶋さんは運がいいほうで、いつも断られるところからも、OKがとれるのです。」と、僕にとっては的外れなことを言っていた。今から思えば、それだけ受け入れ先というのがないのだということを教えてくれていたのかもしれない。しかし、これが現実だとすれば、皆どうやって支払っているのだろう? この社会のシステムは、どこかが変だと感じた。

それから転院の話はソーシャルワーカーと顔をあわせても、こちらから挨拶するだけにして、しばらく時間をかせいだのだが、しばらくしてソーシャルワーカーから電話があり相談へ行った。僕としても出て行くつもりがないわけではない。しかし、現実的に僕の希望する看護基準やら経済的な問題も含めて条件のあう行き先がないのだ。それに、週に半分以上は高熱を出す状態で何故今転院しなくてはならないのか? そもそも無理な話ではないのか? 担当医はこの状態をどうして安定している状態だと判断するのか? 僕にはわからなかった。すぐに39度になったり、氷まくらで冷やして、ちょっと目を離すと、35度を切るときもあった。それは記録としては残らないときもある。看護師さんも変だと思い、数回計りなおすとまた体温が変動しているからだ。現場の方々はとても献身的で、本当に助かった。感謝しかない。しかし、看護基準7:1の最先端の救急病院ですら、こういう事は起こるのである。そんなやり取りの中、経済的なことを含めて考えるとここしかないと勧められた病院が1つあった。その療養型の病院は、看護基準が25:1だった。夜になったら、きっと30:1以下になるだろう。ぼくは、考えさせてくださいとまた話を引き延ばすことにした。

そろそろ転院をしなくてはならない。きっとこの時間経過を計算して、あの時期からアプローチが始まったのだろう。そう考えると病院サイドの立場にたては準等な判断だ。4月27日、ゴールデンウィーク前に話し合いが行われた。ソーシャルワーカーに促され、相談ルームにいくと、担当医、看護師長が揃っていた。僕は3人に囲まれて、早く転院してほしいと告げられた。これは、病院の問題ではなく、制度の問題であることはわかっている。先生は、僕たちの命の恩人である。僕は、今の妻の状況では、いきなり看護基準が20:1以下の療養病床へ行くのには危険を感じると訴えた。この状況で転院しなくてはいけないことは、おかしいと思うのだが、先生はどう思いますか?と問うと「おかしいと思います。しかし、法律としてそうなっていて、西嶋さんお奥さんの場合、他に行く選択肢はないし、これは医者の立場で変えられることではないのです」と告げられた。私は「あと1ヶ月でも2ヶ月でもいいから、置いてもらえないか?発熱だけでも、もう少し安定するまで置いていただけないか?あるいは、看護基準が7:1の病院を紹介してもらえないか?」と訊いたが、それは出来ないということだった。そこで「他のケースで救急病院へ転院した例はあるのか?」と尋ねると「ある」という答えだった。しかしそれは、患者さんのご家族が見つけてきたのでとても特殊なケースであると言われた。その瞬間、僕はこれに懸けるしかないと感じて即答した。「では、僕も自分で探します。」担当医からは、それは大変な弊害を伴うから、薦めないと、、、これは心からの親切心で言ってくれていることも、僕には伝わってきた。それだけ、医療現場でも矛盾があるのだろう。もうこれ以上、ここに迷惑をかけられないのだ。担当医から「連休があるので、探せないでしょう。5月の中旬まで待ちますが、それまでに転院先が決まらなければ、ソーシャルワーカーの指示で転院してもらいたい。」ということだった。ソーシャルワーカーの指示、それは看護基準25:1の療養病床をもつ病院へ行くことを意味していた。受け入れの可能性があり、僕の支払いできる病院は、この病院しかなかった。僕はその場で了解をした。先生が無理をしていることも感じている。命の恩人にこれ以上は迷惑をかけられないと思った。連休明けから会社を休み、病院さがしを始めることを決意した。どう考えても、今の妻が看護基準の低い病院へ行くことは、イコール死亡する確率が高くなるとしか思えなかった。もちろん、このことも相談したが、主治医からは「西嶋さん、人間は発熱で死亡することはありません」と教えられた。そうなのか、そうなんだろうけど、、、しかし、僕は納得できなかったし、それは大変危険だと僕の中の何かが知らせていた。

連休があけた。さぁ、始める時が来た。まずは、現実論として、受け入れてくれる可能性の高い療養病床を3箇所まわった。僕の支払い能力のこともあるので、まずは紹介された看護基準25:1の病院へ真っ先に行ってみた。ここは月額22万前後だ。他2箇所の暴飲は、月額38〜40万といったところだった。

僕がまいったのは、相談にいったどの病院からもまず言われるのは、「積極的医療行為はしない方針だから、肺炎が悪化して死亡しても、それは静かに看取るという覚悟がご主人さまにありますね?」と言われることだった。言い方は様々だが、病院サイドのリスク回避としてのっけから言われるのだ。言い方はとても丁寧だが、簡単にいえば、「死亡しても文句は言わないように。」ということである。最初の病院では、僕は「どういう意味ですか?」と聞き返してしまった。しかしその後は聞き返さないことにした。よくWebでの保険契約や、購入のときに、「同意する」をクリックしてから先に進みますが、あれと同じである。同意しないなら、先へは行けない。ようするに仮に費用が払えるところで、先方が受け入れ態勢があっても、同意しないと入れないので、これは黙って「はい」のボタンを押す以外はないのだ。

しかし僕にはどうしても違和感があった。
僕たちが「今、望んでいる」のは療養病床ではない。基本的に目的がちがうのだ。妻のケースには当てはまらない。もちろん僕は医者じゃない、熱じゃ死なないと言われながらも、どうしても、もっと安定してからでないと、危ないと感じた。これは危険信号だ。諦めてはいけないと強く感じる。ただ生き延びるだけのための場所しか、僕たちの行く場所はないのだろうか? 僕らに選択肢はないのだろうか?Webで調べると、脳幹出血から生還し、自分で歩いて、自分で食事している人もいる。リハビリの方法は本当にないのだろうか?妻は復活するから生き残ったはずだ。医療保健制度というものから「復活なんて考えるな、そんな気持ちを持つな」と言われているようだ。僕らは死を待つための場所を探しているわけではない。

入院していた病院の先生や、ソーシャルワーカーも、「今の制度に、“中間”がない」という表現をつかっていて「急性期」と「療養」しかないことは変だと感じていると言っていた。しかし、今はここからは出ていかなくてはならない。とにかく妻をしっかりと守れる病院をさがそうと固く決意した。

ところが、すぐに挫けた。笑ってしまうくらいに、簡単に挫折した。
いくつかの病院に電話で相談してみると「診断書をもって代理で診察を受けてもらい、先生と話すことが出来ます。そこでの判断となります。」・・・と言われる。しかし、実際に行ってみると、医者と会うことはできない。どうして?と怒りにも似た気持ちになり、とにかく代理受診だけでもさせてほしい。先生と話をさせてほしいとお願いしても断られる。これには病院側の良心もある。どうせ受け入れないと決まっている人と会い、代理受診を5分でも受ければ、初診料を含め4~5千円をとなる。相談に乗ることもできないし、会ったところで「NO」を伝えるだけなのは決まっている。なので、会ってお金をもらうことになるのは偲びないという意味で会わないのだ。代理で説明してくれたスタッフが丁寧に、そのようなことを伝えてくれた。とにかく今の病院は相談にものってくれない場所になっているのだ。これは、どこかがおかしくないのか? こうさせているのが、医療保健制度、診療点数制度ではないのか?

ある病院では電話をしてすぐに、「こちらは急性期病院なので、無理です。」と、受付で断られることもある。妻はお金にならない患者なのだ。これはかなり難しいぞと、疲れ果てて家に帰ってベッドに横になった。もうアイデアはなかった。根性だけではダメだということが判っただけだった。担当医が言っていたことはコレだなと思いながら、悔しいけど何もすることができないままベッドに横になった。

どのくらい眠っただろうか? なんとなく目をあけて、ぼーっとしていた。
その時、携帯電話が鳴った。もう3年ほど会っていない、仕事関係の友人からだった。音楽の仕事で知り合い、信頼できる人柄で長いつきあいだが、しかしまぁ、平たく言えばただの飲み友達だ。彼女は人を癒すこと、人のためになること、本物であること、、、など、音楽と医療をつなげるビジョンをもち、医療関係者の知り合いも多かった。ずいぶん会っていなかったが、メールで妻の転院について相談できる医師や病院があれば紹介してもらいたいと声をかけていた。

彼女はまっすぐにものを考え、一生懸命に探してくれていた。こんな時ほど、人情が身にしみることはない。味方になってくれる人がいることが、どれだけ心強いことか。その彼女が声をはずませて、「西嶋さん!奥沢病院というところの院長が、話を聞いてくれるって!私の懇意にしている、とてもいい先生からの紹介で、この人なら間違いないって!その先生が、受け入れてくれると言ってくれているみたいなの。会いにいきませんか?」ぐったりしていた体に、一気にアドレナリンが流れた。会いに行く日はすぐに決まった。

平行して別ルートで、ある大学病院へのアプローチをしていて可能性もあった。僕にとっては、いったいどちらがいいのか?人間ここらへんがダメなところで、これも結局、比較論というか、まぁ、人間の「欲」の問題だろう。いわゆる、「得」なのはどちらか?をつい考えてしまう。そんな低俗な心が自分の中に見え隠れする。みっともないものだ。

とにかく、こんな状況=現在の医療保健制度、妻の立場=お金にならない患者で、病院サイドが赤字をかかえてしまう可能性がある患者・・・についての話を家族とあって聞きましょうと言ってくれている人が現れたことだけでも、これは"奇跡”の始まりかもしれないと感じた。

頭のどこかで、大学病院のほうがいいのではないか?と考えながらも、何かある種の予感を感じながら奥沢病院の院長(松村先生)との打合わせの日を迎えた。
僕は何の事前知識もなく、紹介された病院へ行き、松村先生と会うこととなった。

ここでも「気」の話になるのだが、会うなりすごい「気」が流れ込んできた。院長先生は人をつつみこむような、引き込むようなものを持っている方だった。初対面でもすぐにそれは伝わって来た。いわゆる「人気」にも通じる、人をひきつける魅力をもっている人だった。話し始めてすぐに僕は、「出会ったな」・・・と思った。僕たちを助けてくれる人との出会いは、3年ぶりの友人からの電話が繋いでくれた。

いろいろ失礼な質問もさせていただきながら、話せば話すほど、「この人だ!」という思いが強くなるそんな出会いでした。僕と会ってくれた日の松村先生は、脳幹出血を起こしてから10年診察を続けている患者さんの家への往診から帰ってきた直後だった。こんなタイミングで先生と会えたことも、すべてが繋がっているように感じた。

この方の場合は、3年程してから徐々にコミュニケーションがとれるようになり、現在では自分の口で食事をとり、パソコン(たしか左の親指が動いて、それを利用しているとのことだったように記憶している)でメールを打てるところまで回復していらっしゃるということでした。最初の2年は意識があるかどうかすら分からない状態だったそうだ。長く険しい道のりですが、このようなケースもあると励ましてくれました。松村先生と会ったときの病院のベッドは満員。ベッドの調整がつき次第、お世話になることをその場で決めた。

この打合わせのあと、すぐに妻に報告へ行った。妻に自慢したかった。褒めてもらいたかった。すごいだろ?僕らの希望通りの病院に転院できるんだよ!いや、それどころじゃない!リハビリをスタートできるのだ!これがどれだけの差かわかるかい? 「肺炎で死亡したとしてもしょうがない」と、最初に言われる病院と「リハビリをしていこう!」と言ってくれる病院とどちらがいいか? 誰でも簡単に答えは出るよね(笑)

どれだけ話したか覚えていないが、ずいぶんと妻に向かって自慢した。奇跡のシナリオはここから始まる。まず1ページを開いたんだ!

未分類 | 22:31:16 | トラックバック(0) | コメント(1)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。