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T.Nishijima

Author:T.Nishijima
2010年2月に妻が脳幹出血で倒れる。2013年3月に白雪姫プロジェクトと出会い、積極的なリハビリアプローチを始めるため、その回復への道のりを記録しようと日記をはじめました。また、このプロジェクトの存在を知ってもらいたいと思っています。
http://www.shirayukihime-project.net/

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ベッドサイドからの景色(6)
<ベッドサイド 〜音楽と気〜>
2010年4月18日、因幡晃さんのレコーディングがはじまりました。当時の僕の仕事は、アイドルタレントのコンサートグッズの制作などをするセクションの責任者でした。なので、普通であれば僕がかかわることは出来ないプログラムのはずでした。しかし、因幡さんのデビュー35周年という記念アルバムの制作ということで、ディレクターとしての参加依頼をいただき、当時の仕事と調整をしながらレコーディングに参加させていただくことになりました。この時期、僕の身体は悲鳴をあげていた頃でしたので、因幡さんに関わらせていただくことによって、音楽に集中できる時間を作れたことは、僕の救いになりました。いつも、数秒ごとに考えがクルクル変わる精神状態でしたが、因幡さんの音楽に触れている時間は、ブレることがなく、妻のことを忘れて集中することも出来ました。

企画も立てさせてもらったのですが、このアルバムのレコーディングは、思い切った録音方法を採用することにしました。やり直しが出来ない環境をつくり、すべて一発録音をするという方法です。ただ、それだけのことですが、テクノロジーの進化により、マルチレコーディングが確立してからは、わざわざこのリスキーな録音方法をとる人は誰もいなくなってしまいました。やり直しをすることが当たり前の録音に違和感を感じ始めたのはずいぶん前でしたが、僕自身も恐くて、なかなか実行する勇気がもてませんでした。いわゆる“本物の歌手”でしか成立しない方法ですが、因幡さんなら絶対できると思いました。きっと、このチャンスにやらなければ一生選択できない録音方法かもしれないと思っていました。

音楽は「時間」と「空間」を共有するためのものとして生まれたのだと思います。その共有空間に発生した空気の振動とエネルギーを録音媒体(現代ではハードディスクの場合が多いです)に取り込み、定着させるのが僕らスタッフの仕事だと考えていました。(もちろん、このことを理解している上で、それをぶち壊すというアプローチなど、様々あるのですが・・・)この録音方法は結果として、竹刀ではなく真剣でわたりあうセッションとなり、その場のピリッとした空気感、緊張感、までを録音することに成功しました。やはり、ここにも「気」が関わってきます。因幡さんと参加ミュージシャン全員の気合を録音、記録することができ、名盤を生み出す現場に参加できたことは、この頃の僕の精神状態をとても安定させてくれました。

妻に書いた「ベッドサイド」は、レコーディング初日に録音されました。耳だけは聴こえているであろうと思っていたので、まずは妻に聴かせたいという気持ちがあり、アルバムに収録する予定にはなっていませんでした。レコーディングの合間のどこかで、みなさんの協力をいただき、録音しようと思っていました。アルバムタイトル曲「まん丸の蒼い月」因幡さんの代表曲「わかって下さい」と順調にレコーディングが進み、3曲目に「ベッドサイド」をやってみようということになりました。なかなかタフなレコーディングでしたので、この緊張感の中で一日3曲レコーディングすることは、大変なことでした。この曲は、子守唄のようなやさしさをイメージしていたので、エレキピアノ(フェンダーローズ)で録音してみたいと思っていました。シンセでは出ない、アナログのやさしさとエレピの音のゆらぎは、とても心地よい世界を生み出せると考えました。音のバランスを確認するために、1コーラスリハーサルをしてもらい、とてもいいムードでしたので、この流れですぐレコーディングを開始しました。ところがなんと演奏途中でローズのご機嫌が悪くなり、ノイズを発するようになってしましました。エレピが壊れてしまったのです。エレピを弾いていた佐藤準さんも、因幡さんも、3曲目ということもあり、かなり疲れていました。これはガックリと、その場の空気がピタッと止まってしまいました。僕はここで時間をかけてしまっては気持ちが伝わらなくなると思い、「これは神様がピアノでやりなさいと言っているのでしょう。準さんピアノでやってみてもらっていいですか?」と言って、1回だけトライしてもらうことにしました。これで、いい空気が流れなかったら、この録音はもう出来ないだろうなと思っていました。準さんも「エレピをイメージして作ってきたフレーズだから、どうかなぁ?」 という疑問をもちながらも、「まぁ、やってみましょう!」と快くムードを立て直してくれました。因幡さんもそれに呼応したように、「さぁ、歌おう!」ということになりました。普通なら「今日はここでやめましょう」というところだったと思います。しかし、みな妻を知っていることもあり、きっと妻のためになんとかしたい、聴かせてたい、、という気持ちがあったのだろうと思います。この最後のワンテイクがすばらしいテイクとなりました。そんな経緯で、このアルバムに「ベッドサイド」が収録されることになりました。

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未分類 | 13:30:04 | トラックバック(0) | コメント(1)
ベッドサイドからの景色(5)
松村先生(奥沢病院院長)は、診療点数制度について、素人の僕にもわかるように教えてくれた。それは、妻を受け入れることは出来るが、やはりいつまでもというわけにはいかない。それが、現在の医療保険制度であり、点数制度だということだった。なんとなく、法律がそうなったなぁ・・・程度しか知らなかったので、実際にはどんな仕組みかは知らなかった。

入院するためには入院する理由が必要だ。それが病名である。そしてその病名に点数が付き、それが患者の持ち点となる。そしてその得点は日数経過により減っていく。例えば肺炎なら2週間で持ち点がなくなる。そうすると、病院は保健からお金がもらえなくなる。患者さんの支払い金額(だいたい30%)だけの入金となり、病院にとって赤字の原因となる。こんなイメージだったと思う。

病院に入院したことがある人はわかるだろうが、お医者さんの一日はビックリするほどタフな仕事だ。看護師さんたちは、大変なシフトをやりくりし、大勢のスタッフで夜も寝ずに働いてくれている。この仕組みを維持できないと、病院機能として問題がでる。しかし、得点のない人が長期入院していたら、お金は入って来ない。ようするに経営ができなくなるのだ。確かに色々な弊害があったのだろう。お年寄りが居心地がいいということで、出て行ってくれないなどの一部の理由があったようだ。そこで、病院が患者を追い出す仕組みを保健制度として考え出したのではないかな。たしかに考えた人は頭がいい人だろうけど、あまり好きじゃない方法だ。

妻もまずは1ヶ月、長くても1ヶ月半が限界だという約束で入院させてもらった。ここからは、転院を繰り返しながら、病状が安定したところで、療養型へ移るといったプログラムを組んでいこうと、松村先生は計画的な話をしてくれた。その上この先生がすごいのは、グループ病院との横の連携をとり、転院先の面倒をしっかりみてくれたのだ。患者の家族にとって、この転院問題のサポートは、本当に心底助かるのだ。僕らにとって、どれだけ心が安定するサポートであることか。出会えたことに感謝をし、とにかく今後は、先生が決めてくれた通りに動こうと思った。

点数制度の話をしてくれて、1ヶ月半が限界と言っていたのですが、実際にはさらなる転院先のベッドが空かずに、結局3ヶ月入院させてもらった。入院させてもらい嬉しいやら、申し訳ないやら、奥沢病院には持ち点ゼロ患者として迷惑をかけることになった。

松村先生と話をしたときに、初めてマッサージの大切さを知りました。先生は筋肉拘縮を防ぐためのリハビリとしてのマッサージを何故行っていないのか?不思議だと話していました。最初に入院していた病院では3ヶ月以上、マッサージリハビリはしていませんでした。それは、脳幹出血の患者にリハビリをする必要はないという考えが、その病院にはあったのだろうと思います。急性期のための病院ですから、リハビリの必要がある場合は、他に移ってから、、ということだったのかもしれません。奥沢病院に転院する前に、すでに尖足になってしまいましたが、今思えばとても残念なことです。僕が知識があれば、交渉も出来たでしょうし、自分でももっとマッサージに力を入れることが出来たように思います。

<「縁起」と「ちょっとへんな話」>
最近、僕は「唯識」という仏教の考え方を勉強しています。5世紀頃に日本に入ってきたこの考え方は、深層心理学とでもいえる考え方です。フロイドやユングといった人たちの、とんでもない遥か昔に、すでに仏教では潜在意識に目を向けていた訳です。僕も知らなかったのですが、奈良の興福寺、京都の清水寺なども、「唯識」を伝えているお寺なのだそうです。それをここで掘り下げるわけには行きませんが、簡単に言えば「人間も自然もすべては、その繋がりの中で起こっているものである」ということです。当たり前ですが、一人だけで何の関わりもなく生きている人はいない。この世にいなかった僕は、長い祖先の出会いの連続の中で今はここいますが、そのうちまたいなくなります。すべては「縁」で起こっているわけです。

いつもこの「縁」は、確実なタイミングで必要な時に現れるようにプログラムされている「出会い」があるのではないのか?と思うことがあります。その「出会い」は、何故かそうなるように仕組まれています。今、思い起こすと不思議なことがたくさんあります。書ききることは出来ませんが、奥沢病院の松村先生との出会いはその一つです。今も繋がりながら、お世話になっています。

妻との出会いも考えると面白いことの連続なのですが、今回のテーマとそれるので割愛します。
先にも書いた、僕らの第一回目の人生絶望期、この頃から僕の人生観は大きく変わり始めることになります。人は誰も、命の危機に直面すると、藁をもすがる気持ちになったりもしますが、それと同時に「僕らの幸せってなんだろう?」とか「生きるって何だろう?」とか考えるようになります。もちろん、これまでも考えて来てはいるのですが、より深く考えるようになっていったのが、この時期です。僕ら=僕、妻&子供たちは、妻の癌と命の危機に正面から向き合って、このことを皆で経験するために一緒にいるかもしれないと思うようになったのもこの時期でした。

よく昔のテレビドラマの台詞で、親に向かって「生んでくれと頼んだ覚えはない」というような捨て台詞がありますが、僕の場合は子供たちに「お前らが生まれて来たくて、僕たちの元に生まれてきたんだ」と根拠もなく言っていました。何故か知りませんが本気で生理的にそう思っていました。しかし妻が癌になってから、色々な本を読むことになるのですが、その中に、ブライアン L ワイスの「前世療法」というのがあり、これがまさに、生まれてくるのは自分で決めて生まれてくる、と言っているわけです。この人は、マイアミの大学の精神医学博士で、いわゆるただのスピリチュアル系という人でないので、冷静な表現をつかって、慎重に文章を書いている感じがしました。これは面白い本で気に入りました。僕はこの考え方に今も賛成しています。ようするに、死んでみないとわかりませんが、この考え方で生きることは、生きている上ではメリットしかないのです。死んでみてまだ魂があれば「ほら見た事か、本当だったじゃないか!」となるわけですが、死んでそれでおしまいだったら「思う」事もないのですから、それでいいわけです。生きる上で直面するトラブルに、意義を見いだし、しっかりやりぬくプログラムとして捉えたほうがいいと、この頃、様々な本を読んで思うようになりました。これも、一つの「出会い」です。

妻の癌の時の話ですが、このように考えていくと、きっと僕にも何らかの「役割」があると感じていました。抗がん剤が利かなくなり、癌が押さえ込めなくなった段階で、乳房の切除手術を行いました。大きい癌だったので、左乳房の筋肉まで切除することになり、切除範囲は広範囲に及ぶという説明がありました。当時のニュースで肺の摘出手術で、癌でない正常な肺を間違って摘出した事故(?)などが報道されている時期で、妻はかなりネガティブになっていました。なんでも恐いのです。このイージーミスが絶対に起こらないように、僕は主治医がいるチームで手術してもらうように、毎回、診察に立ち会ってお願いをしていました。主治医は「うちの病院には優秀な執刀医がおり、チームが4チームあるから、それはそのときのシフトによる」と言うのですが、僕は主治医がチーム編成の中に入っていないとダメだとダダをこねました。いろいろな切り口で話をして、無理矢理それを理解してもらいました。患者というのは、心の問題も大きいのです。主治医との信頼関係こそが、妻の安心につながると信じて、主治医がその手術の場にいてくれることが僕たちには必要だったのです。ここに辿りつくことも僕の「役目」だと感じていました。

手術当日の説明で、切除範囲が広範囲にわたるので、皮膚移植の場所が、通常では股から皮膚をとるのですが、面積がとりきれないため、太ももから広範囲の皮膚を切り出すことになる。これが手術後大変痛みが伴う・・・という説明がありました。先生に太ももの処置はどうするのか?訊いてみると、オキシフルを塗るだけということでした。そりゃぁ、痛いはずです。その痕はケロイド状になるという説明もしていました。その瞬間、僕はリクエストをしました。「切除範囲面積によりますが、両方の股から皮膚を切り出したらいいのではないか?手間は増えるけど、そうしてもらえないか?」とお願いしました。主治医はちょっとムッとしたように感じました。「西嶋さん。それは、現場で決めさせていただけますか?」と一言。もちろん当たり前ですので「はい。もちろんです。しかし、先生、わかっておいて欲しい事があるんです。患者は、痛いより痛くないほうがいいんです。わかって下さい。痛いより、痛くないほうがいいんです!」と伝えました。すぐに妻は全身麻酔を打たれ、手術室へと入っていきました。たしか4時間の手術の予定でしたが予定の時間になっても出てきませんでした。何か起こったのではないか?とビクビクしていました。予定より1時間長くかかった手術室から、先生が出て来て、僕の顔を見るなり一言「西嶋さん。両方からやっておいたから。」・・と笑顔で言われました。ははぁーなるほど、太ももから切り出して、切り出した処置はオキシフル、その一枚は胸へ縫合するのも、周りをひと縫いすればいいのですが、両方の股からだと、右股から切り出して縫合、左股から切り出して縫合。切り出した左右の皮膚を合わせて胸へ縫合するということで、手間が通常の倍はかかったのだろう。それで手術時間が1時間延びていたのだ。手術直前にしっかりとお願いしておいてよかった!このおかげで、手術後の痛みはかなり軽くすんだ。「痛いより痛くないこと。」これが僕らの望みだ。僕はちゃんと自分の役目を果たせたような気分だった。こんな事も、ブライアン・L・ワイスの本との出会いが僕に「役割」を伝えてくれたように思えた。

この時期からたくさん、この手の本を読んだ。その中にエリザベス・キューブラー・ロスという人の本があります。「死ぬ瞬間」などの名著がたくさんありますが、それを読んでいた頃、妻と、もしも何か僕らに最悪のことが起こった時には、お互いに延命措置はやめようと決めていました。もちろん、そんな深刻に話し合ったわけではなく、本の内容の話をしているときに、そんな話になったことがあっただけです。誰だって同じだと思いますが、呼吸があり、心臓だけが動いているだけの人生を生きたくはないでしょう。この本を読んだ半年後に妻は倒れました。僕は人工呼吸器をつけないとすぐに決断していました。あの時、息子たちの同意がとれて、本当に良かったと思います。これも、本を通しての出会いでした。

その後、僕は「気功」との出会いがありました。僕は気功に通い、妻はサウナに通う。妻は癌治療の一環として2000年にデュープリンという薬で生理を止めていました。それで妻は40歳で更年期障害の症状が出始めます。また、生理を止める事によって、高血圧になっていたのですが、そのことを本人も、僕も気にしていませんでした。降圧剤も飲んでいませんでした。僕はたばこをやめていましたが、妻はやめませんでした。そう言えば、妻が癌の摘出手術を終え、集中治療室に2日間いて、一般病棟に戻って来た時、ベッドを訪ねると、そこにいない時がありました。作詞家の渡辺なつみさんがお見舞いに来てくれたので、ピックアップして連れていったとき、ベッドに姿がありませんでした。あれ?おかしいなぁ。まだ歩けないはずんだけど・・・と思いながら、もしかしたら!と思って、喫煙室へ行ってみると、妻はマイルドセブンをプハーっってやっていました。どうなの?癌だったんだよ君。どーなのよ?って思いながら、なつみさんと「流石きよみちゃん」と笑いました。

このストーリーを今僕はこんな風に思っています。
「僕らはこのことを経験するために生まれてきたようだ」と。僕は色々サポートをするための気づきを得る方向へいっている。妻はしっかりと命がけのプログラムとして、倒れるべくストーリーを進んでいったように思うのです。妻は高血圧、サウナ、たばこ。僕は、禁煙、気功、水泳です。ちゃんと経験をするべき方向へ、二人とも順調へ進んでいくわけです。

僕は元々、科学好きで、文学嫌いだった。文章なんて書くのは大嫌いだった。しかし、妻の癌と出会い、本をよく読むようになった。僕は文字を読むのが人一倍遅い。だから、とても時間がかかる。でも、妻と家族と生きる意味をしっかりと捉えるために、僕は色々な本を読んでみた。僕は小学生のころ、国語がきらいだった。それは、答えがファジーだからだった。感想文というのがあるけど、これで花丸をもらう事は簡単だった。どう書けば花丸がもらえるかがすぐわかっていた。だから僕はその通りに書かない。色々な方向からの思想があっていいはずだから、悪人に感情移入してみたりする。そうすると、三角だったりする。僕はこれが嫌いだった。小学二年のころの話である(笑)

とにかく、僕は妻と色々経験をするために一緒になったようだ。それをサポートしてくれるために駆けつけてくれたのが、息子たちなのだろう。サンキューね。そう言う意味では、僕らにとって息子たちは、この苦難を乗り越えるためのサポーターのようである。よく僕らを選んで来てくれた!となる。

どれが正解かはわからないけど、人間は考え方一つで変わる事はたしかだ。
今だから言えるが、僕は最初の病院のソーシャルワーカーが大嫌いだった。何と言うか、考えてくれていると思えない人で、主治医にこの人を変えてほしいとお願いしたことがあった。しかし、即答で「それは出来ません。」とキッパリと言われた。家に帰ってwebで調べてみると、その担当はソーシャルワーカーチームの最高責任者だった(笑)

今思えば、この人はとてもまじめで、どんなクレーマーも含めて、すべての対応を一種類の方法で行っていたのだろうと思う。すべてを、シャットアウトし、ルール通りに運営することが、彼の仕事だったのだろう。それも、今はわかる。しかし、今もっと大きく思うのは、彼がいてくれて、僕が頭に来ちゃって、結果、そのパワーによって奥沢病院へ行けた・・という考えもできるのです。こうなると、すでに彼は僕の恩人の一人となるのです。人間なんて勝手なものである。そして僕は幸せものだ。

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