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T.Nishijima

Author:T.Nishijima
2010年2月に妻が脳幹出血で倒れる。2013年3月に白雪姫プロジェクトと出会い、積極的なリハビリアプローチを始めるため、その回復への道のりを記録しようと日記をはじめました。また、このプロジェクトの存在を知ってもらいたいと思っています。
http://www.shirayukihime-project.net/

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ベッドサイドからの景色(12)
<転院・入院の意味>

奥沢病院に転院してすぐに松村先生から胃瘻の設営手術を勧められた。口から食べる能力がないので、鼻から経管栄養を流し込む管を通していたのだが、誰がどう考えてもずっと鼻から胃へ向かった管があることは、違和感の塊だったことだろう。約4ヶ月もの間、管が鼻から差し込まれていて、定期的に抜き出され、あらたに消毒された管をまた鼻から差し込み直すのだ。文字で書いても、何と言うか鼻の奥の粘膜が擦れてきそうだ。確かにそれを考えると、胃瘻という仕組みはよいだろう。先生はメリット、デメリットをしっかりと説明した。デメリットはまた身体に穴をかけることだ。しかしメリットのほうが多いこと、そして何より本人にとって、鼻から管が入っている異物がなくなるのだから、快適になるだろうと説明してくれた。6月6日に胃瘻設営手術をしてもらった。理論的な説明をうけて、安心して手術を受けることが出来た。以前メールにも書いてあったが、松村さんは医師と患者、家族とのコミュニケーションをとても大切にしてくれている。コミニュケーションをとり、互いに理解しあうことが信頼関係だ。こういう事を<意識>し、さらに<実行>する人ってどれくらいいるのだろう?僕ら家族は、安心できる。本当にありがたい、幸せを感じました。

当時の妻は、尿も自分で排泄できなかったので、管を入れていた。どうしても炎症が起こり、尿が濁っている時には、とても心配になったものだ。奥沢病院では、経過を見ながら尿の管を外して、自力で排泄することのトライアルを定期的にやってくれた。難しいと判断すると、また管をつけるのだが、ただ付けっぱなしではなく、声をかけてトライアルをして、それを繰り返してくれた。いつの事だったのかは、僕の手帳には記録していなが、ある日病院へ行くと、尿の管がとれていた。1週間後経っても管が取り付けられることなかったので、自力で尿排泄が出来るようになったのだと分かった。とても嬉しかった。本当に一歩一歩だけど、こういう一歩は本当に嬉しいことでした。これも、きっと看護基準が25:1以下の療養病院へ行っていれば、当然人手が足りないので、たぶん、尿の管は付けたままとなっていたのではないだろうか?もちろん、想像でしかないが。ここにも、意識不明者で治らないけど生きているので<置いていただける場所>としての入院と、「清美さんは若い、まだまだ可能性がある」と、<回復へむけての場>としての入院の差が如実に表れていると思いました。何度も同じことを書いてしまいますが、本当にここにたどり着けてよかったと思うのでした。

2010年7月中旬、奥沢病院に来てから約2ヶ月になろうとしていた。最初に先生とお会いして説明をうけた、診療点数制度とのことで約束できる入院期間は1ヶ月~1ヶ月半が限界だと認識していました。その期間はとっくに過ぎていて、大丈夫なのかな?とさすがにこちらも心配になってきた頃、奥沢病院のソーシャルワーカーの方から、2箇所、病院を見学して来てほしいとお話をいただいた。すぐに先方の病院へ連絡をとり、面接に行った。ひとつは現在妻が入院している療養病院、もう一つは、奥沢病院同様の急性期病院だった。ソーシャルワーカーという方にいろいろと接してきたが、当たり前のことだけど、人それぞれタイプというものがある。奥沢病院の担当の方は、まず僕らの気持ちを考えてくれる。何故そう思うのか?そう僕が感じるのか?は研究していないけど、そういう風に感じるのです。そして現実としてニュートラルな情報をくれるので、とても分かりやすかったし、気持ちが患者の家族サイドに向かっていると感じられ、こちらの心もとてもリラックスが出来た。これは、奥沢病院全体に言えることですが、看護師さんたちも含めて、この病院のカラーなのでしょう。院長の人柄が伝染するというか(笑)そういう人が集まってくる病院なのでしょう。

この時の面接でも、療養型の場合はやはり(4)の転院探しの時と同様、定型文の通過が必要でした。もうわかっていたので「はい」のボタンを押してから、次にいくわけですが、これは形式として必要な儀式なのだろうと思うようにすればいいのだと、今後経験する方には伝えたいものです。必死に探している、精神的にも余裕のない状態でがんばっている人にとって、これはけっこうダメージが強いのです。それが分かってもらえると嬉しいのですが、形式とはなかなかそうは行きません。急性期の病院では、医療体制がもともとちがうので、この儀式はありませんが、普通は入院することが出来ないわけです。

8月に入り、本当にこんなに入院させてもらっていて大丈夫なのだろうか?と心配になってきましたが、僕らには何も術がありません。そして8月中旬頃にやっと次の転院先が決まりました。急性期病院のほうにベッドの空きが出来て、入れてもらえることになりました。面接のときにも言われましたが、期間はやはり1ヶ月が限界だということでした。慌ただしい転院を繰り返していくことになると覚悟していましたが、倒れて半年たった脳幹出血の患者が、まだ急性期の病院へ転院できることは、とても幸せなことでした。本当に診療点数制度は僕らにとっては困る制度でした。一つの病名だけですっきりとルールを決められても、人にはそれぞれ、特殊な病状、事情を抱えているので、例外に対する処置が、医療サイドとしても出来ないルールは、困ったものです。僕の場合は、本当に奇跡的な出会いですので、この部分については参考にできない例でしょう。こうして8月27日(金)奥沢病院から次の病院へ転院し、コーヒーはスターバックスからマクドナルドに変わりました。

マクドナルドのアイスコーヒーに、クラッシュアイスを多めにオーダーして、病院へ通う日が続きました。とにかく、暑い日が続いてて、ヘトヘトになりながらも1ヶ月はすぐに経つのです。さて、次はどうなるのだろうと思いながらの転院でしたが、さらなる転院先はすぐに決まりました。3度目4つ目の病院は、なんと奥沢病院でした。今思えば、答えは簡単です。松村先生が、転院先予定の療養病院の空きが出ない時は、再度奥沢病院へ受け入れることにしてくれたから、2度目の転院も急性期病院へ転院できたのでしょう。以前、あれだけ探しても、門前払いが普通なのだから、倒れてから半年もたっている脳幹出血の患者を受け入れてくれる急性期病院は普通はないはずです。きっと一ヶ月という条件で、受け入れてもらい、次なる場所が見つからない場合は、再度、奥沢にもどるという事にしてくれていたのだろうと思います。どこまで、幸せなことだろう。9月28日(火)、妻のコーヒーは、またもやスターバックスになりました。妻も喜んでいるように見えました。

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未分類 | 16:46:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
ベッドサイドからの景色(11)
<おばちゃんの名言>

2010年7月18日(日)
九州から母の姉が東京に来ていたので、二人をつれて奥沢病院へ妻の見舞いに行く事にした。母の姉だから、ぼくにとっては伯母さんであるが、これがスーパーポジティブな熊本のばあちゃんなのである。

4年前(2009年だったと思う)のある日、このポジティブな肥後ばーちゃんが東京に来たときに、妻も会う機会があった。伯母さんはこの時すでに肝がんを患っていた。肝炎の発症を確認し、その後悪化して、肝硬変、肝がん、と移行していった。今から約30年前のある日、どうしても身体が動かないので変だと思い、病院で検査したら、肝炎になっていたそうだ。これは、1950年〜88年の予防注射の針の使い回しが原因・・・というあれだ。しかし、伯母さんは、なってしまった事に文句は言わない。そんな事にパワーを使っても意味がないと思っているタイプで「病気になったのなら、今後をどうするか?それが大切だ。」という考え方だった。とにかく、未来にしか興味がない人だった。妻も一緒に、このスーパー・ポジティブ肥後ばあちゃんに会った時の事です。何の話の流れでかは忘れたけど、

「貴丸。この世に病気で死ぬ人間は一人としておらんとたい。病気は病気、命は命たい。」

・・・という名言を妻と一緒に聞いた。がーーーん。すごい衝撃だった。「なるほどー。」と目が覚める思いだった。もしかしたら、妻の乳がんの話なんかをしていて、その話の流れだったのかもしれない。伯母さんは、自分の話はその時にはしなかったので、僕は、肝がんのことは知らなかった。

そのスーパー・ポジティブ肥後ばあちゃんである伯母さんが、妻の見舞いに来てくれた。奥沢病院まで、車で2時間弱。到着して妻の病室へいくと、すぐ妻の手をとり、耳元で大きな声で「清美ちゃん!生きんしゃーい!寝とってもいいけん、生きんしゃい!良く今まで働いた、これからは寝ててんよかばい。病気は病気、命は命たい!清美ちゃん、絶対生きるんよーっ!」と、声をかけてくれた。これだけ言いきってくれると、なんというか、涙ながらにも清々しい。

4年前に妻と一緒に聞いたこの名言は「あれはすごい。確かにその通りだよね。」と妻とも話をしていたので、おばちゃんの声は絶対に妻の心に響いただろうと思った。もちろん、顔つきは、相変わらず無表情なんだけど。

僕は、色々な人に、人は支えられているのだなと、ここでも思った。声を掛けてくれている伯母さんを見ながら、僕も支えられていると思った。「病気は病気、命は命」これは真実だろう。そもそも、命がなけりゃ、病気になることも出来やしない。寿命は天が決めることだ。僕は妻は今生で「愛を受け取る」ということを経験するために倒れたのだと思っている。いつも、愛情を注いでばかりいて、受け取ることをしていなかったのではないだろうか?そう思い「今回は、寝たままで大変だけど、それを受け取る練習をしてみよう」と声をかけている。与えるのは簡単だけど、受け取るのが苦手の人もいるようだけど、そのために今回は、倒れることをしなくてはならなかったのかも知れない。

スパー・ポジティブな肥後ばあちゃんは、先日、3月18日の早朝に旅立った。癌発症から約10年、笑顔だけで生きていた。たまにしか会わないけど、本当に笑ってばかりだった。ゴッドーマザーな伯母さんの3月20日の葬儀には、一族全員が集まり、しめやかな葬儀のあとは、賑やかな大宴会となった。最後まで、ポジティブだった伯母の教え「病気は病気、命は命」これは僕の中にズドンと収まっている。妻の心にも、しっかりとあるはずだ。生きる意味がそれぞれにあるのだろう。その生き方を、伯母のようにしっかりと人生を生抜き全うしたいと思う。

未分類 | 00:04:49 | トラックバック(0) | コメント(0)

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